藩校日新堂の創設とその学風

   
       
   

初代教頭  今井光隆

   
       
                   

 矢島藩には、英明の藩主親章あり、広く産業の振興に努めるとともに、学問を好み、矢島藩文教の基をつくった。その始祖佐藤治兵衛維周は、矢島の自然が生んだ学徳ともすぐれた教育者であり、又、人格者でもあった。師なき後その学徳をついで門人広く庶民の教育に努め、矢島藩文教の維持に努めた。治兵衛の養嗣子佐藤温卿、今井文山等は江戸に出て三河の儒者中井乾斎に学び、又、横手の儒者小室虚斎矢島に来って学風の維持に努めた。かかる文教の隆昌が、いきおい藩校開設への機運をかもし出したのも自然の姿であった。
その後、12代藩主親道にいたり、藩校を創設して、正式に子弟の教育をなすにいたった。

初代教頭今井光隆

 大日本教育史料に記されてある藩校日新堂は、安政元年(1854)の創設となっている。その場所は、陣屋大手前うまや長屋中とあるから、現在の矢島高等学校校舎のあたりに相当する。生徒はすべて通学制とし、身分に差別なく収容し、入学、退学等の年限の規定もなく、経費もすべて無償であった。生徒の数はおよそ百人を越えた。創設当時の職員は、教頭一人、助教一人、外に世話役職員が数名おった。
 その初代教頭が今井光隆である。
 教授する学科は、漢字、算法、筆道等を主とし、又、医学をも教えた。なお、武術をも習練させたが、これは別に練武道場を設けて、もっぱらそこを道場として修業させた。教科書は、四書五経を主とし、指導の方法は、講義を主とし素読、輪読をも加えた。その時間も朝の五つ時より四つ時までを素読とし、午後八つ時より七つ時までの間を輪読と講義の時間とした。
 試験は定期と臨時とがあった。定期のものは、春秋の2回実施されるが、その試験は今まで教授された書典の中から3〜4節を区切って読ませ、その状態によって成績の評定がなされた。その成績の良好なるものには、賞として半紙と毛筆が授与された。又、臨時の試験も毎月6回から12回程度実施されるが、これには習った所を朗読させ評定するとともに指導の手も加えられた。また平時の学習を奨励するために、生徒の氏名を記した名札を学堂に掲げて、試験の結果をもとにして、その木札を上下させて成績を示す方法をとった。
 習字は、つき1回席書と称して一斉に書かせ、それに甲乙の評定を記入し、すぐれたものは学堂の側面に貼って賞した。この試験を当時「席改め」と称したといわれている。年末にいたって、生徒の出欠席を調査し、主席の良好なるものには、賞として金百疋を、それに半紙と毛筆をそえてあたえた。又、藩費をもって遊学を願い出る者がある時は、その試験として四書の中から各巻2〜3問を講義させ、その状態を判定して許可するさだめであった。
 日新堂の初代教頭今井光隆の業績は、龍源寺境内にある碑文にあきらかである。
 今井光隆、通称四郎兵衛、文山はその号である。文化7年4月8日、江戸下谷藩邸に半田又六郎の第4子として生まれた。後今井家の養子となる。幼時身体虚弱、四歳にしてようやく歩きはじめたという。14,5歳の時重病にかかったが、あやうく生を得て後は日常の健康に留意し、特に飲食に慎み、ようやく健康を取り戻したという。幼より学を好み、中井乾斎について経学を修めた。その間読書に勉励し、ほとんど外出もせず、庭園を見歩いた日わずか数十日だけだったと伝えられている。藩主親道は矢島藩文教の興隆を志し、光隆を日新堂兼衛生館の教頭に任じ、もっぱら子弟の教育にあたらせた。光隆は、身をていして、任務の遂行に努力し、その教化を受けて各界に活躍したものは実に多い。
 明治2年、藩権少参事兼学校教授となり、ついで大属教授となる。廃藩とともに学校を辞し、後自宅にあって子弟を教育す。明治10年8月1日、68歳をもって没した。遺骸は龍源寺に葬った。
 光隆は、性正直廉清、言少なく、行動に礼節があった。学問は広く、特に考証にくわしかった。漢詩、俳句、和歌等もよくした。
 治兵衛維周なきあと、矢島藩文教の維持興隆につとめ、その基を確立した功績は大きい。

矢島の歴史より

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