この記録によれぼ、文化8年以前は小板戸村3軒・岩坂村3軒計6軒の農家に仮米蔵を申しつけ、それに各郷村を割り当てて収納していたことになる。しかもその米は、本庄船支配人の受取証を受げ、それを手形として上納のしるしとしていたようである。今度新しく御蔵が建てられたので、その中に役所を設けて小板戸役所と呼び、藩からは御蔵取り扱いの役人として、足軽古組の中から二人づつ交代で出番をしていた。そして米の納付はここで済まされることになったが、御蔵一つでは収容し切れないので、前記6軒の仮米蔵がそのまま使用されてた。現在は御蔵跡地を指摘することができるだけであるが、6軒の仮米蔵の内岩坂五兵工家のものは、納屋として現存し、当時の丁持札と称するものも多く保存されている。 |
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生駒藩の米蔵跡(矢島町小板戸) |
舟神碑(矢島町小板戸) |
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御本米川下げ |
御本米とは年頁米の別称である。当時矢島一帯を流れる子吉川を「矢島川」と呼び、本庄付近河口までを「本庄川」といって区別していた。本庄船は春五月ころのぽってきて、小板戸船場(別に沢渡船場とも言った)から米を積んで本庄の矢島蔵宿三軒の米蔵へ運んで行った。船場は本庄領明法船場から上流に、滝沢下・高畠・釜ケ淵下・蟹沢・山田・吉沢とあって、終点が小板戸であった。 |
本庄船の舟子たちはなかなか鼻息が強く、藩は交渉に手こずることもまれではなかったが、安政3年(1856)のころには川船すべて引き上げるという造反もあった。これは上条(山田船場と同じ)の川船問屋が、米一俵の運賃一升三合の内から、一合づつピソハネをしたことに原因があったと書いている。 |
船がつくと米を下の船場に一俵づつ運び出すのであるが、この人夫を「丁持」と呼び、各村村から組をつくってこの仕事に従事した。一俵運ぶごとに丁持札が渡され、その数に応じて賃金が支払われた。一方本米を御蔵に納める農民は、扱い料として「掛米」という手数料をとられた。その料金は次のようで、遠方から苦労して運んできた川内・直根・笹子郷の農民が、多くとられるという不条理が見られる。 |
「文化9壬申年、御新法相成り、初御収納米小板戸御蔵納めに仰せ出され侯。 |
御定法、掛米之事 |
一俵に付き、 一、二升六合 前郷 一、二升八合 笹子郷 |
一、二升五合 川原・杉沢村 一、二升六合 向郷 |
一、二升七合 川内・直根郷 一、二升 小板戸村」 |
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築館村船付場の願い出 |
三浦十左工門家の記録「明和7庚寅年(1770)、笹子・直根・川内三ケ郷より願い出候御年貢米本庄下げ仕り侯ては、遠路故諸掛り相増し郷中難儀に相成り侯間、何とぞ御上御威光をもって、築館村へ本庄船差し登せ御米相下げ申したき段願い出侯。笹子・直根御支配三森平左工門の取次役十蔵・惣七、右両人御願申し上げ侯所、その段仰せ付けられ侯。本庄源七郎始め御蔵宿中へ仰せつけられ、船にて差し登せ申すべき段畏み奉り侯えども、船頭どもいろいろ御訴訟申し上げ侯えども、御聞請これなく、細矢船隔年二艘漸漸登り侯て、米六十俵積み下げ、ただ一下げにてあとは延引に相成り侯。尤、運賃は爰元まで一升四合、これより築館まで六合〆て二升にとりきめ申し侯。その節笹子天神村名主七郎左工門と申す者、川道など世話致し侯旨聞き伝えまかりあり侯」 |
この一事は、笹子・川内・直根三ケ郷の農民にとっては、文字通り死活間題であったにちがいない。また小板戸から築館までの川筋を見て、川辺の高石川原や前杉の早瀬を登り切る船頭の困難さも、並たいていではなかったことであろう。天神村の七郎右工門が、船を引き登せる陸路を開いたとあるが、この家は天神の草分けとして続いている。運賃も本庄から小板戸までの割合に比較して、分外高いことがわかる。 |
続いて「天保二卯年(1831)、またまた笹子・直根より願い出侯て、早速御上にて御取請、坂の下村・新庄村、御用材伐り取り、人足をもって築館に引き、野大工・木挽取りかかり、船三艘造り侯様申し付け侯。その節御重役方菅原九十九様江戸在番にて御留守、金子佐治兵工・御郡代小番伝右工門・小助川治郎右工門・大目付金子九郎兵工・支配代官金子文左工門。同年5月中本庄より舟子3・4人参り侯て、50俵積・60俵積にて一度づつ沢渡受倉へ差し下げ申し侯。上乗は蔵宿久太郎参り申し侯。船差し登せ侯節は(小板戸から築館へ)笹子・直根人足にて漸漸さしのぽせ、築館へ囲い置き申し侯。天保四巳年、小田御役所出役金子文左工門殿御下りにて、米860俵三度にて差し下げ申し侯。この節、築館丁持は一合、蔵敷は三合四句、運賃は四合御上より御下げ下され侯」 |
この築館船に乗り込んだ上乗者久太郎は、築館の蔵宿で家名を仁左工門といい、村の入口左側の佐藤家のことで、船付場は現在の立石橋上手の辺であったということである。 |
この三ぞうの船はこの年限りで、2年ほど築館に囲まれていたらしく、後に本庄蔵宿の一人今野三郎右工門の願い出でによって、払い下げられている。こうして築館船場のことは永続することなく終ってしまったが、奥地農民の年貢納めに苦悩する実情を、生で浮彫りしたものとして注目したいところである。 |