小板戸御蔵と川下げ米

 
小板戸御蔵地の忠進
 領内から収納される年頁米は、大方金銭に換えられて藩用にあてられるわけであるがその年貢米を収容する御蔵は、北端の小板戸村に設けられていた。米の運送は、陸路を車馬で運ぶよりも舟運をかりる方が、はるかに有利であったから、領内(大沢郷は別として)で川舟の登ってくる唯一の船場、小板戸村に御蔵を建てたのは当然のことである。
 この御蔵地を忠進(寄付)した小板戸村三浦十左工門家の記録に、次のような関係記事がしるされている。
 「当所、先年本庄領の節(楯岡氏領)、打越左近様矢島3500石仰せつけられ侯節(楯岡氏改易により)、御収納米川下げ爰元(ここもと)より本庄湊へ船下げ致し侯に付き、他所人に取扱い致し候儀、菅原覚左エ門様取計いにて荒所村の内郷内63石出され、当村を左近様の御領に致し、蔵宿安左工門・仁右工門・甚右工門相勤め方仰せつけられ、本庄船宿致し、郷郷よりいずれの村村と取りきめ相勤め居り侯。
 生駒氏時代、当所人夫行届き兼ね侯て、杉沢村の内岩坂村を当村分に致し、御民図帳(人別改帳)引請け一村に相成り、その後下村(岩坂)御蔵は勘作・庄九郎・五兵工三人同様に相成り候。
 丈化8未年(1811)、十左工門御蔵地御忠進、御倉地形8月下旬取かかり申し侯。
 その時御役人は、御家老小助川三右工門・菅原九十九・御郡代佐藤郷右工門・小番弥藤太・大目付小番伝右工門・中目付金子佐治兵工・支配御代官山科頁。
 是まで百姓方本庄蔵へ納め侯て、手形を以て上納の所、今度御法替仰せつげられ侯て、爰元蔵に請け切り致し侯。御蔵建て御普請御奉行・小助川弥藤太、差添・小番伝右工門、詰奉行・山科頁、下役御組・八右工門乙吉(後の十左工門)。御蔵地御合力として年年五俵づつ下され侯」
 この記録によれぼ、文化8年以前は小板戸村3軒・岩坂村3軒計6軒の農家に仮米蔵を申しつけ、それに各郷村を割り当てて収納していたことになる。しかもその米は、本庄船支配人の受取証を受げ、それを手形として上納のしるしとしていたようである。今度新しく御蔵が建てられたので、その中に役所を設けて小板戸役所と呼び、藩からは御蔵取り扱いの役人として、足軽古組の中から二人づつ交代で出番をしていた。そして米の納付はここで済まされることになったが、御蔵一つでは収容し切れないので、前記6軒の仮米蔵がそのまま使用されてた。現在は御蔵跡地を指摘することができるだけであるが、6軒の仮米蔵の内岩坂五兵工家のものは、納屋として現存し、当時の丁持札と称するものも多く保存されている。

生駒藩の米蔵跡(矢島町小板戸)

舟神碑(矢島町小板戸)

  
御本米川下げ
 御本米とは年頁米の別称である。当時矢島一帯を流れる子吉川を「矢島川」と呼び、本庄付近河口までを「本庄川」といって区別していた。本庄船は春五月ころのぽってきて、小板戸船場(別に沢渡船場とも言った)から米を積んで本庄の矢島蔵宿三軒の米蔵へ運んで行った。船場は本庄領明法船場から上流に、滝沢下・高畠・釜ケ淵下・蟹沢・山田・吉沢とあって、終点が小板戸であった。
 本庄船の舟子たちはなかなか鼻息が強く、藩は交渉に手こずることもまれではなかったが、安政3年(1856)のころには川船すべて引き上げるという造反もあった。これは上条(山田船場と同じ)の川船問屋が、米一俵の運賃一升三合の内から、一合づつピソハネをしたことに原因があったと書いている。
 船がつくと米を下の船場に一俵づつ運び出すのであるが、この人夫を「丁持」と呼び、各村村から組をつくってこの仕事に従事した。一俵運ぶごとに丁持札が渡され、その数に応じて賃金が支払われた。一方本米を御蔵に納める農民は、扱い料として「掛米」という手数料をとられた。その料金は次のようで、遠方から苦労して運んできた川内・直根・笹子郷の農民が、多くとられるという不条理が見られる。
 「文化9壬申年、御新法相成り、初御収納米小板戸御蔵納めに仰せ出され侯。
   御定法、掛米之事
    一俵に付き、  一、二升六合 前郷          一、二升八合 笹子郷  
              一、二升五合 川原・杉沢村     一、二升六合 向郷
              一、二升七合 川内・直根郷     一、二升 小板戸村」
 
築館村船付場の願い出
 三浦十左工門家の記録「明和7庚寅年(1770)、笹子・直根・川内三ケ郷より願い出候御年貢米本庄下げ仕り侯ては、遠路故諸掛り相増し郷中難儀に相成り侯間、何とぞ御上御威光をもって、築館村へ本庄船差し登せ御米相下げ申したき段願い出侯。笹子・直根御支配三森平左工門の取次役十蔵・惣七、右両人御願申し上げ侯所、その段仰せ付けられ侯。本庄源七郎始め御蔵宿中へ仰せつけられ、船にて差し登せ申すべき段畏み奉り侯えども、船頭どもいろいろ御訴訟申し上げ侯えども、御聞請これなく、細矢船隔年二艘漸漸登り侯て、米六十俵積み下げ、ただ一下げにてあとは延引に相成り侯。尤、運賃は爰元まで一升四合、これより築館まで六合〆て二升にとりきめ申し侯。その節笹子天神村名主七郎左工門と申す者、川道など世話致し侯旨聞き伝えまかりあり侯」
 この一事は、笹子・川内・直根三ケ郷の農民にとっては、文字通り死活間題であったにちがいない。また小板戸から築館までの川筋を見て、川辺の高石川原や前杉の早瀬を登り切る船頭の困難さも、並たいていではなかったことであろう。天神村の七郎右工門が、船を引き登せる陸路を開いたとあるが、この家は天神の草分けとして続いている。運賃も本庄から小板戸までの割合に比較して、分外高いことがわかる。
 続いて「天保二卯年(1831)、またまた笹子・直根より願い出侯て、早速御上にて御取請、坂の下村・新庄村、御用材伐り取り、人足をもって築館に引き、野大工・木挽取りかかり、船三艘造り侯様申し付け侯。その節御重役方菅原九十九様江戸在番にて御留守、金子佐治兵工・御郡代小番伝右工門・小助川治郎右工門・大目付金子九郎兵工・支配代官金子文左工門。同年5月中本庄より舟子3・4人参り侯て、50俵積・60俵積にて一度づつ沢渡受倉へ差し下げ申し侯。上乗は蔵宿久太郎参り申し侯。船差し登せ侯節は(小板戸から築館へ)笹子・直根人足にて漸漸さしのぽせ、築館へ囲い置き申し侯。天保四巳年、小田御役所出役金子文左工門殿御下りにて、米860俵三度にて差し下げ申し侯。この節、築館丁持は一合、蔵敷は三合四句、運賃は四合御上より御下げ下され侯」
 この築館船に乗り込んだ上乗者久太郎は、築館の蔵宿で家名を仁左工門といい、村の入口左側の佐藤家のことで、船付場は現在の立石橋上手の辺であったということである。
 この三ぞうの船はこの年限りで、2年ほど築館に囲まれていたらしく、後に本庄蔵宿の一人今野三郎右工門の願い出でによって、払い下げられている。こうして築館船場のことは永続することなく終ってしまったが、奥地農民の年貢納めに苦悩する実情を、生で浮彫りしたものとして注目したいところである。

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