十ニ代・親道(ちかみち)

 
 親孝弟・養嗣子 妻肥前唐津城主小笠原長泰娘。
 親道勤倹力行に意を用い、よく文武を奨励す。弘化元年(1844)初入部、藩校日新堂を開校、医学校も併せ開き衛生館と名付ける。また、幕府に願い出、毎秋甲胃調練を行う。親道矢島に入国五度、領内の民70才に至る者に衣服を給し、80才以上の者には口俸を与えるなど民政に意を注ぐ。
 安政2年(1855)江戸にて死去、行年39才、海禅寺に葬る。
 
 

十三代・親敬(ちかゆき)

 
 親道嫡男母星野氏。妻松平源信女。幼名篤太郎、改め大内蔵と称す。
 時まさに維新の戦雲急を告げ、佐幕の色濃い東北の地にありながら、弱冠、19才にしてよく藩論を統一し、慶応4年(1868)閏4月、天旗ならびに軍令状を賜り、勤王方として秋田藩などと共に南の庄内藩と戦う。庄内藩による鳥海山頂越えの奇襲にあい、八森陣屋を白焼退陣の止むなきに至るも、後、庄内藩の降伏により戦勝を得る。この時の江戸家老は加川氏、国元での総指揮をとったのは、中世において、高松市伏石町にあった佐藤城を本拠地として活躍した佐藤氏の子孫松原彦一郎佐久であった。共に先祖は讃岐出身である。
 この功により親敬は、明治元年(1868)11月「藩屏に列せられ12,500石余」更に12月「従五位下に叙せられ、讃岐守に任ぜらる。」すなわち大名に列し、生駒讃岐守を名乗ることになったのである。生駒讃岐守の名乗りは、実に250年余前の生駒家三代・正俊以来のことであった。
 翌2年、生駒親敬藩籍を奉還し、矢島県知事となり矢島生駒氏十三代229年の幕を閉じたのである。そして明治4年の廃藩置県により知事を免ぜられ、生駒氏は矢島の領主としての役目を終えたのである。
 

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