十代・親孝(ちかのり)

 
 丹羽長貴三男・親章の養嗣子 妻親章長女。
 奥羽二本松城主丹羽長貴三男、親章養嗣子となり、養父親章の死により家督を継ぎ、名を大内蔵と改める。
 治世中の文政5年(1822)11月、水野出羽守の求めに応じ、本所下屋敷の相対替えを行う。親孝好みて書史を読み、手に巻を離さず、晩年「讃羽綴遺録」を著わし、生駒藩の事蹟を後世に明らかにする。全国的に見ても藩主の著作として、注目すべき書である。
 天保6年(1835)正月7日、江戸にて死去、行年46才、海禅寺に葬る。
 治世中の大惨事は天保4年巳の年の大飢饅で、領内1,061人の餓死者を出す。藩では庄内・酒田の本間家からの多額の資金の借用、生駒家旧縁の伊勢・津の藤堂家や、親孝の養子となった親愛の生家豊前・中津の奥平家からの援助をあおぐなど、その対応に苦慮した。
  
 

十一代・親愛(ちかよし)

 奥平昌高六男 親孝の養嗣子
 豊前中津藩主奥平左衛門尉昌高六男、妻は肥前島原城主松平忠憑娘。親孝多疾にて早く致仕、家督を継ぎ名を、三郎と改名す。
 天保9年(1838)帰国、翌10年5月24日、帰府の途中不幸にも陸奥国上戸沢の宿において病いにわかにあらたまり病没、家臣らその死を秘して帰府、実弟を養嗣子に願い出、許されて後喪を発す。行年22才、海禅寺に葬る。
  

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