ハ代・親睡(ちかとし)

 本多正矩七男・親賢の養嗣子 妻津田信成娘。
 親賢致仕、存命中に養嗣子・親信が死去し、駿河田中藩主本多伯耆守正矩七男・三左衛門を迎え、親信の妻・津田氏を室となす、監物と称し明和8年(1771)家督を継ぐ。
 安永9年(1780)7月朔日、将軍家治より召され、「邑に帰って衛府の労を休むべし」との命により、同年8月4日江戸を発し、17日封邑に入る。二代の高清が召に応じて江府に入り、その後六代にわたって矢島に帰れなかったが、是に至り親睦初めて矢島に帰る。臣民大いに悦ぶと生駒家譜に記されている。以後参勤交代の列に加えられ、国元にとっては藩主が身近で親しき存在となり、その足蹟が数々残されるようになる。
 天明2年(1782)2月5日、江戸にて死去、行年49才、海禅寺に葬る。
 
 

九代・親章(ちかあきら)

 親睦の嫡男 母津田信成娘
 幼名斧太郎後人内蔵と改称す。妻は名門下野国喜連川左兵衛督恵氏娘、天明2年父の死により家督を継ぐ。
 寛政4年(1792)初入部以来国に帰ること四度、親章公親章公と今でも親しまれている。その間、農民である佐藤治平の才能を認め36才で士分に取り立て江戸で学ばせ、後には代官にまで取り立てた。治平は、藩学の祖と称され、教育でもおおいに功があった。このように親章は人材の登用に力を注いだ。後、農民の出で寺小屋の師匠をし、士分、修験、農民の子を問わず27年間に約500人の子弟の教育に当たった不及こと三浦治左衛門や、治平、光曙など寺小屋師匠等の碑十数基が現存するが、それらは親章の時代からである。
 文化14年(1817)6月11日、江戸にて死去、行年45才、海禅寺に葬る。
 

戻る