六代・親賢(ちかたか)

 
 親猶嫡男 母織田信明娘。
 宝暦3年家督相続、初め六郷政晴(出羽本庄)の娘を娶ったが間も無く歿し、下総結城の城主水野日向守勝政の娘を娶るも子が生まれなかった。生駒家血筋絶へるをおそれ、初代親正の弟の血筋である旗木・津田信成の女を養女に迎え、陸奥二本松藩主丹羽高寛二男長倫を配した。長倫、名を親信と改める。
 領国矢島は、東北の霊山鳥海の山麓にあり、3年に一度は凶作に侵されるという地である。親賢在世中、宝暦5年(1755)からの大飢饅、更に明和4年(1767)と、凶作に遭遇。藩財政の窮乏をきたし、大阪の富豪食野家から借財した記録などが残されている。
 また、宝暦11年(1761)9月6日、親賢45才の時、幕命により日光法王随白意院宮入京(京都へ)の雇衛を命ぜらる。生駒家にとっては名誉なことであったが、その任は重大であり、国元からも金子家老以下多数の家臣達が呼び出され、無事法王を京都山科の毘沙門堂へお送りし、雇衛の任を果した事が、精しく牛駒家譜や家臣の家譜に記されている。
 親賢天明6年(1786)6月16日、江戸にて死去、行年70才、海禅寺に葬る。
 
 

七代・親信(ちかのぶ)

 
 丹羽高寛二男・親賢の養嗣子 妻津田信成娘。
 明和7年(1770)4月、養父親賢致仕、家督を継ぐも、幕府の許可が出ないうちの同年7月21日江戸にて死去、行年35才、海禅寺に葬る。
 正式に在任したとはいえないが、矢島では七代藩主としている。
 

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