四代・正親(まさちか)

 親興の嫡男 母井上氏。
 父の死により家督を継ぎ、保田内膳正の娘を迎えて妻となすも、病を得て起つこともできず、子無きによって弟親猶を養嗣子となす。宝永3年(1706)正月27日、江戸において死去、行年29才海禅寺に葬る。
 
 

五代・親猶(ちかなお)

 親興の三男 母加川氏。
 宝永3年16才にて家督を継ぐ、妻織田讃岐守信明の娘。
 宝永6年、幕命により旗本・窪田彦右衛門を江戸の邸に禁鋼す。後これを矢島に移し20年間禁鋼、亭保13年(1728)江戸奉行に送致す。
 延宝の事件も落着、正親、親猶の治世は比較的平和な時代で、国元の家老金子久左衛門家寛が、阿弥陀三尊を本尊とした浄土宗白幡派の孤峰庵を建立、正徳元年(1711)には、小助川三右衛門と金子父子が、七日町川代山無本寺に丈六の観世音座像寄進するなど、延宝事件の犠牲者の成仏を念じたと思われることなどがあげられる。
 親猶宝暦3年(1753)7月28日死去、行年63才、海禅寺に葬る。
 

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