三代・親興(ちかおき)

 高俊四男 母高清と同
 寛文10年(1670)、兄高清の養嗣子となり家督を継ぎ主殿と名を改める。妻肥前大村藩主大村因幡守純長の娘。
 江戸藩邸に定府の日々を送り、国元矢島は山本一党(旧領主根井氏の系統をひく、三浦、遠藤氏等、山本小路という所に居住したことからこの名がある。このころから、讃岐出身の重臣の多くは姿を消し、矢島に古くから居住した有力者が生駒藩政の中枢を占めるようになる)の名で呼ばれる重臣たちに国政をあずける。藩財政不如意のため、山本一党は窮余の一策として総検地を藩主親興に献言、延宝5年(1677)、田植えの最中に竿入れをした。常軌を逸した強行ぶりで35,000石の水帳を調整し、理不尽にも村々の肝煎・組頭らより、もれなく印判を強制し江戸藩邸に差し出す。事の成り行きに窮した百姓たちは意を決し、国元における非政を29ケ条の訴状にしたため、総百姓の名で江戸藩邸に愁訴するも受け入れられず、年貢の催促は今まで以上に厳しく迫ってくる。事ここに至ってはと百姓たちのなかには、田畑を返上し山中に逃げ入る者、家財の一部を担い他領に逃亡する者等があらわれ、領内物情騒然たる有様となる。
 この時、山木一党と反目していた小助川.金子等(旧領主大井氏の旧臣たちの子孫)が、百姓側に加担し山本一党の追放を画策、これに成功した。しかし、彼等は百姓たちをも欺き、山本一党に代って過酷な年貢取り立てを始める。
 そこで領内・笹子村の仁左衛門身の犠牲を覚悟して江戸藩邸に直訴す。延宝7年8月5日、藩主親興、仁左衛門の願いを聞き届け15,000石の朱印状を下げ渡す。これを知った金子・小助川は直ちに好策を案じ、小助川が出府し仁左衛門等を譲訴した。親興はこの虚偏の申し立てに乗り仁左衛門等百姓の一味の追捕を命じ、延宝8年8月23日、新町裸森に於て修験者和光院を生埋めの刑、外百姓6名傑・斬首3名に処され、翌閏8月15日、仁左衛門も秋田領上仙道で無惨な最後を遂げた。
 このようにして、延宝5年35,000石の水帳に端を発した騒動も前後4年にして、百姓に犠牲をしいた形で終息し、漸く領内静諮となった。もし幕府の知るところとなれば、御家騒動以上の不辛を招く事態になったであろう、大事件であった。
 この事件が終わって間も無く、修験者による庄内側との争いが生じた。さらに農民による境界争いと発展、譜代の大藩・庄内(鶴岡城主・酒井氏14万石)が相手でもあり、幕府の裁定は非運ともいえ、鳥海山頂は庄内藩領となった。山形県との県境は、本来峰境であるべきものが大きく北側に食い込み、県境となっているが、この時の争いに起因している。
 三代親興の時代は、讃岐から矢島へ転封した過渡期的時代とみえ、生駒譜代の家臣と地元出身(これも大井氏旧臣の子孫、根井氏旧臣の子孫と二派があった。)の両者の調和を欠くといった事情の中で、御家騒動以来の重大事件もどうにか危機を脱することができたといえよう。
 親興元禄15年(1702)4月26日、江戸にて死去、行年48才海禅寺に葬る。
 

戻る