初代・生駒高俊

  
 寛永17年(1640)7月26日、家臣に事ありて讃州から出羽国由利矢島の庄一万石に遷された高俊は8月7日江戸を出発、同19日に塩越(秋田県由利郡象潟町)に上陸したのが高俊30才の時である。
 讃羽綴遺録(生駒親孝著)によると「高俊江戸を発し、行程130里塩越という所に着駕、同き年又矢島の陣屋に移る。
 伝えに日く、四宮数馬、大塚伊左衛門を始めとして土田喜右衛門、七條左京、尾池官兵衛、山田七右衛門、数越弥兵衛、神戸藤左衛門、三野浅之亟、浅間市兵衛、村山九兵衛、入谷小兵衛、牛田徳兵衛、佐藤主税そのほか足軽に至るまで、せめては是までの君恩報じ奉らんと、頃日の行粧に引き変へて矢島の陣屋に従うはあわれなりける形勢なり。士200人ばかり相従い申せども、給す可き手立もなく四宮数馬をはじめとして暇を給い散々に相分れ旧功の輩も減少せしと也。」とある。
 移封後7年、正保4年(1647)2月29日、讃岐以来の側近(讃州分限帳では、700石御供番)七條左京の「諌死」という事件があった。御家騒動・訴訟の際は幕府に呼び出され意見を述べたり、高俊移封の際は先遺隊として矢島入りし、その重責を果し、四宮数馬と共に家老として初期の藩政を担っていた左京が、今氏(高俊の側室)の譲訴により、高俊に即刻切腹を命じられるという事件が起った。老臣たちの諌止をふり切ってのことであり、真椙は不明であるが、移封直後の複雑な内情を示す悲しい出来事である。
 安永2年(1773)に至りて、地元大井氏の旧臣小助川治郎右衛門光永と、讃岐以来の旧臣大塚又左衛門正直の手により、龍源寺に七條左京並びに、惨殺されたという左京の四子の墓が建立され、その霊が弔われている。
 慶安2年(1649)6月29九日、高俊と共に矢島に来られた母円智院(藤堂高虎の養女)が亡くなり、江戸参府も許されないまま万治2年(1659)6月16日矢島にて死去、行年49才、母円智院と共に龍源寺墓地に眠っている。
 昭和28年に県指定有形文化財(建造物)となった根城館の八幡神社・本殿は、高俊が御領内繁栄を願って万治2年に、家臣井上道円(讃州分限帳では、300石御供番)をつかわして再建したことが、同神社縁起に記されている。
 

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