生駒氏の治政時代

生駒(矢島)歴代系譜へ

 生駒の初代を親正といい、幼名を甚介と称した。大永6年(1526)美濃国(岐阜県)可児郡土田村に生まれる。永禄9年はじめて織田信長に仕え、斎藤氏攻めに秀吉とともに墨股の砦を守って功があった。信長なき後は秀吉の配下に属し、各所の戦いにかがやかしい武名をあげた。天正13年近江国高島郡2万石の領主となり、従五位下雅楽頭に叙せられた。次いで伊勢の神戸、播磨の赤穗の領主となり、天正15年秀吉より讃岐一国をあたえられ、高松に築城した。朝鮮の役には各地に転戦し、特に生駒水軍の名を高からしめた。
 秀吉卒するに及んで親正を三老中の一に任じて後事を託した。慶長5年従四位下に叙せられたが、その後病を得て、関ケ原の戦には子一正をして東軍に属させたが、家臣の大塚三正が秀頼の命により丹後の田辺城を攻めたことを徳川に謝するために、高野山に入り、程なく国へ帰って剃髪した。慶長8年(1603)2月13日高松城において没した。行年78歳。親正は、性温厚、よく士を愛し、人みな心服したといわれている。
 関ケ原の戦においては、その子一正と孫正俊は、徳川方に属して奮戦し、その功によって讃岐十七万六千石を知行するところとなった。その後、丸亀にも築城して親正、一正、正俊、高俊と4代56年にわたって、西国大名の雄として重要な地位をしめ、又、治政の上にもみるべきものが数多くあった。
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生駒家初代・親正 生駒家二代・一正 生駒家三代・正俊 生駒家四代・高俊
 高俊十一歳にして後を嗣いだが、幼弱のため藤堂高虎その後見役となった。その間家臣が藩政をっかさどったが、不幸にも家臣問の不和抗争を生じ、これが幕府の探知するところとなって、お家取締り不行届きの故をもって、寛永17年閏7月(1640)讃岐全土を没収され、改めて勘忍料として、出羽の国矢島の地に一万石と江戸下谷に中屋敷とを賜わった。
 命をうけた高俊は、家臣とともに移封の地へ向かった。そして一まず海路出羽の国由利郡塩越の地へ到着した。この日が寛永17年8月19日、今より360年の昔のことであった。この移遷された当時のことについては、十代藩主親孝の著「讃羽綴遺録」にその委細が記されてある。 「お供の人には、家老四宮数馬、大塚伊右衛門をはじめとして、土屋喜右衛門、七条左京、尾池官兵衛、山内七右衛門、数越弥治兵衛、神戸藤右衛門、三野浅之亜、浅間市兵衛、村山九兵俺、入谷小兵衛、牛田徳兵衛、佐藤主税、堀、井上、堀江、椎川等その外小身或は小役人、中間小者にいたるまで、その宛行には顧みず、今までの君恩に報ずべき心なりとみえ、頃日までの行粧引変出立ぬ哀なりし入部なり。従う者は凡そ200人ばかり、惣人数大勢なりといえども、始終かかえがたきによりて四宮数馬をはじめ或は近々暇を取り或は家断絶せし故は後旧功の者も減少せしとなり。」と書かれてある。旧臣のみならず、下民にいたるまで長年の恩恵を思い、主君に従って出羽の地へお供をと願い出る者が実に多かったという。こうした人達を諭し教えて後去らしめたとある。生駒治政のいかにすぐれたものがあ一たか、又当時の君臣の間がいかにうるわしい心情によって結ばれておったかを知ることができよう。
 塩越にあって時をまっていた高俊は、その後寛永17年10月21日、初冬に近い由利原高原を横ぎって移封の地矢島へと入国した。居をもと打越氏の居城八森の地と定め、そこに陣屋をととのえ、その場を中心として城下の町づくりがなされた。以来220余年の間ふるさとの地は、生駒氏の領地となり、その治政下に明治をむかえ、そして今日にいたっている。
 万治2年(1659)6月16日病を得て、齢49歳をもって卒した。遺がいは、だ火にふして後、金嶺山龍源寺に葬った。
 高俊卒して後、高清は、遺言にしたがって万治2年9月13日、舎弟権之助俊明を自領伊勢居地に二千石をさいて分家させ、みづから八千石となって、大名格をはずれ江戸にあって交代寄合として幕府に仕えることとなった。以来代代の藩主は、公儀に仕える身となった。ために藩政は、ほとんど領地在住の家臣にまかせることが多かった。
 安永6年(1777)6月、八代親睦にいたって、将軍家治は、じきに親睦を招き、長の労苦をねぎらうとともに、江戸在勤の役をとき、以後は、国もとに帰ってもっぱら休養をはかるとともに、国政に専念するようにとのことばがあった。
 2代高清以来180年ぶりに藩主が帰国し、直接領内の治政をっかさどることとなった。長い間藩主不在の時代を過ごし、政府のいっさいを国元の家臣にまかせていた藩政がこうして藩主みずから政治をみることになった。このことは、矢島にとっては、実に大きな意義を有することであった。はじめ矢島の冶政が他藩に比して、やや立ち遅れの感があったが、藩主入国以来、文教、産業等諸般の面に強く進展のあとがみられ、矢島藩独自のものを数多く生み出したことも事実であった。
 

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