明治新政の改革

廃 藩 置 県

 

藩主を矢島藩知事に任命

 明治2年正月、薩長土肥四藩主は版籍奉還の先がけを実行したが、矢島藩主生駒親敬は、深く時勢の動きを察して同年4月2日に「この節諸藩では封土返上の由でありますが、諸政御一新の時にあたりまことに感激仕りました。よって、とるに足らざる小邑ではありますが、小身もまた版籍奉還を仕りたいと存じます。」と願書を差し出したところ、6月22日付をもって、「生駒親敬を矢島藩知事に任ずる。」という辞令が達せられ、藩主13代にして新政府の地方官に就任することになった。
 

藩政改革始まる

 明治2年の改革は、まず旧藩体制の切り崩しを急務とし、家老以下の複雑な家格を取り除くことにあった。そこで家老を権第参事二等席、用人を少参事三等席、として以下十一等の職席を定め、役名も御勘定を出納、町奉行を市令、御祐筆を書記というように改めた。そして大小の政務を担当させることとしたのである。
 翌3年の改革では、知事の家禄(年俸)はそうだかの1/10とし、以下藩士の実禄は六等分に分かち、一等(20石)7家、二等(17石)6家、三等(15石)17家などとし、別に官職の俸禄が与えられた。特に門閥を廃して士族と卒の二つにとどめ、死刑は必ず天皇の裁下を仰がしめた。当時藩庁の御用提灯には十六紋の菊花紋章が許されている。
  

矢島県から秋田県に統一

 明治4年7月14日廃藩置県の詔勅が発せられ、生駒親敬は藩知事を免ぜられた。
 この詔勅と辞令は、江戸詰権大参事が代受し、早飛脚を立てて24日に到着した。親敬は直ちに藩庁職員を一堂に集め、まず詔勅を朗読して廃藩置県の趣旨を伝達し、最後の訓辞として、「決して動揺することなく、拙者に仕える心得をもって官員の令を守られよ。」とさとられた。かくして矢島藩は矢島県となったが、其の後の改正を経て同年11月には秋田一県に統一され、初代知事島義勇が秋田県権令として就任した。
 

第四大区から由利郡へ

 明治5年に新しい地区の割り方として、大小区制を設けたが,翌6年に区域を改正して秋田県を七大区四十八小区に分けた。由利郡は第四大区となり、初代大区長に佐藤政忠(矢島)が任命されている。四大区は更に六小区百五十六ヵ町村に分けられたが、矢島は三小区に編入されたので、秋田県第四大区三小区城内村(又は七日町村)などと呼ばれた。同年11年郡制に改まった。
 

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