鳥海の山名由来

 鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、見のがすことができない。鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の中に鳥海山大明神とあることに始まるとされている。
 鳥海山の号は国史に見る所なし。和論語に鳥海山大明神と出づ。三代実録には飽海の山とありて山名を記さず。(大日本地名辞書)
 和論語が作られたのは、丁度頼朝の時代で、鳥海の山名はこの時までには、すでに一般から呼ばれていたと思われる。
 この山について変遷を考えると、古くは大物忌の神山、北山、飽海の山とか呼ばれていたようで、鳥海と呼んだのはその後のことであった。飽海の山というのは、由利郡にはまだ設置されず、飽海郡内の山であったからそのように呼ばれたのであるが、後世長く呼ばれた鳥海の山名は、どうしてできたのであろうか。結論からすると、安倍氏の全盛時代安倍宗任(むねとう)の所領がこの方面にあったことによるものとするのである。なぜかといえば安倍宗任を鳥海弥三郎宗任と称したことである。そのわけを調べると、宮城県亘理郡に鳥海の浦という所があって、ここが宗任の誕生地であるところから、その生地にちなんで鳥海弥三郎と称したと推定される。
 その後安倍氏の発展に伴い、岩手県方面に中心を移したのであるが、その地域に鳥海の地名が今に残っている。磐井郡の鳥海、胆沢郡の鳥海の柵等は、いずれも鳥海弥三郎に関係ある旧跡とされている。
 わが出羽方面にも宗任の所領があったかどうか明記されたものはないが、矢島方面には鳥海山の外に、相庭館附近に鳥の海の地名のあることや、子吉川を古くは安倍川と呼んだという古伝、さらに九日町村の修験永泉宗隆世氏の覚書の中に、天喜3年鳥海弥三郎宗任殿より御寄附三石有之由とか、笹子村流東寺の記録にも天喜年中、鳥海弥三郎より云々の文字があることからみて、由利郡全部が宗任の勢力下にあったと考えられるのである。
 今一つは、酒田方面と宗任との関係である。かの有名な藤原秀衡の母は宗任の息女で徳尼公と呼ばれた人である。その人は藤原氏滅亡の際、十六人衆と呼ばれる家来と共に酒田に逃れてきたと伝えている。現に酒田市の泉竜寺に徳尼公廟があり、また十六人衆の中の何軒かは今に残っているとのことである。
 以上のことから推定すると、由利郡を含めた飽海郡一帯にわたって、宗任の領地があったことを語るものでなかろうか。かかる関係から、鳥海氏領内の山として、鳥海の山名を生じたと考えるのである。
 その後安倍氏、清原氏、藤原氏とあいついで滅びたが、南北朝時代になると、由利鳥海両氏の対立が見られるのは、鳥海宗任の子孫が残存して一勢力をなしたものであろう。このように鎌倉時代以前、由利郡が鳥海弥三郎宗任と関係があり、鳥海の山名を生じたとするのである。

矢島の歴史より

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