大井五郎の息女鶴姫の消息

 
 大井五郎の息女鶴姫については、於藤(おふじ)と記されたものもあるが、両戦記を調もべてもこれを二人として取扱うことはできない。前に述べたように、慶長9年楯岡氏が由利郡領主となって間もなく、鶴姫が長門守の夫人になったとあるが、これを中心にその消息を述べよう。
 先ず文禄元年矢島落城の時、姫は4才であったと記されている。これから推算すると、矢島浪人が大井氏再興のためにたった慶長5年には12才で、慶長7年長門守夫人になった時は15才にあたっている。
 これと共に両軍記には、姫が仁賀保蔵人良俊と結婚したことを述べている。このことを年令的に検討すると、これは問題にならないことが分かる。仁賀保の系図によれば、良俊は寛永8年に39歳で没したとあるから、姫が長門守と結婚したという慶長7年には、9才であったことになる。しかもこの話は天正15年に仁賀保と矢島が和解を図るために考られたという話になっている。この天正15年は、姫の生まれる2年前にあたり、良俊の生まれる7年前ということになる。このことから見ても仁賀保との結婚話は不思議な運命を描がこうとした小説的記述が入り込んだものであろう。なおこの話は、普通の十二頭記にはなく、記事の附加された十二頭記詳本の中にあるところから見ても、後世永慶軍記あたりの記事が挿入したものではなかろうか。
その他長門守夫人になったとする方に確実性のあることは、長門守時代の元和6年(1620)に大井五郎夫人楠峰松公(法名)が没していることで、これが福王寺の過去帳に見られることである。この寺に古来大井氏の墓と称する五輪(矢島で見られる最大のもの)があったことも、長門守時代を語るものと考えられる。今後これを中心に鶴姫の消息を今少しくたずねたいものである。

 

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