築 館 神 楽

 
 秋田県、山形県の境にそびえたつ鳥海山。その麓の矢島町築館は北東を子吉川が流、西は荒沢川、東は田沢川が流れるという三面共に囲まれた台地に位置する。新田、八森下などの小字名があるが、築館そのものはその名の示すごとく館として構築されたといわれ、「八幡寺縁起」などの伝えによれぱ、畠山重忠が矢島地方を馬草領地として統治の際、築館に代官所を置いたといわれる。この台地の東には築館寺院の埋没跡が知られ、そこからは板碑・石造骨壷・地蔵尊・石組石かく・陶片・古瓦等の遺物が多く出土しているというからその集落の古さが解ろう。築館の生業のほとんどは近年まで農業であった。少し前までは13軒の家があったというが今では12軒となり、「植田」「佐藤」の両姓で占めている。集落内での親戚関係が8軒もあるという、同族的な極めて小集落という感が強い。
『出羽国風土記』(明治17年・荒井太四郎著)によると八幡神社は城内
村築館に鎮座す応仁元年畠山庄司郎築館に住し当社を氏神となす同
年中小笠原義久の領地となり以来村民之を祭る
 とあるごとく、八幡神社はこの館主の崇敬社として創立したものとみられるが、集落内にはその他に祇園社も祀られてきている。この八幡神社は明治43年には矢島城内鎮守の神明社に合祀されたが、その後復祀されて現在は、八幡神社と八坂神社(祇園社)を合祀して築館の鎮守としてきた。ここが古くからの八幡神社の社地とみられ巨樹の伐根があり境内は松や杉の木で囲まれている。このほかに築館を含む城内地域の神社には、鳥海山修験のために建立された大物忌神社、矢島開発の縁起を持つ開山神社、大江義久が信州より下向の際勧請したという諏訪神社、小田集落の開田を物語る小田神社などがみられて、それらはこの築館の城仙との関わりも深いといわれてきている。

 さて、こうした歴史的な築館に伝承されている「築館神楽」ではあるが、神楽に関する来由など直接的な文書等が残念なことに遺されていない。ただ明治37年の銘がある若者御中での「太鼓張換有志寄附帳」(半紙袋綴四丁)があり、明治42年には「獅子幕改新帳」(半紙袋綴四丁)もみられることから、この僅かに知れる記録により近代では可成盛んであったことが想起される。詳しくはわからないがこの神楽は、いつの頃からか鎮守である八幡・八坂神杜に奉仕する芸能として保持継承されてきたものらしい。

古峰神社

 神楽が行われる日は、4月15日(古くは6月15日)の八幡・八坂神社の祭典の日と、それに可成以前から矢島神明社の八朔祭での祭典に奉納されるものである。八朔祭には宵宮で奉奏演舞され、当日には神楽の獅子が神輿の先頭をつとめるものである。特に宵宮では築館の神楽が始まらないとお祭りが出来ないとさえいわれてきた。神明社と築館神楽は浅からぬ関わりのあったことも想像される。
 八幡・八坂神社祭典の時は、祭式の中で神楽の舞が演奏されてきた。これが終ると神楽連中は集落中を廻り家毎に神楽を奏して歩く。この時家の中に入り行う神楽は「本獅子」で、道中は「門獅子」と呼ぶものを行っている。昔は、ほとんどの家々で獅子を舞わしたものだが今は希望する家のみとなった。またそのほかでは、病人の居る家に頼まれてよく舞を行ったという。こうした時に普段の場合は獅子の耳を吊る糸は大変丈夫にしてあるものだが、不思議と舞の時に切れることもあった。これは獅子が権現様として不吉なことを予知するかのようであったとして、その家の病人はその後間もなく死亡したという話も伝えられている。神楽に対する信仰とともに獅子頭そのものも神様としての深い信仰があることを物語っている。
 ところでこの築館の神楽は、最初に太鼓を立てた上に獅子頭をのせ神前または床の間に安置をする。そうして獅子を被って舞う者が先達となり、神楽を行う人々と参列者一同で拝礼をするのである。獅子の前にはオセンマイ(御洗米)とお神酒を供え、蝋燭をともす。この拝礼の儀式を行わないと神楽の舞を始められないものである。こうして舞が始められるもので、獅子頭を採る役の者が先に立ち、次に後の一人が被り、後の一人が幕を広げる。これに囃子の人を除いて神楽連中は全て幕の中に入る。
権現様と称される獅子頭
 この時、幕内には七、八人も入るというもので、この間は終始神楽囃子が流れており、そして次第に舞動作に移っていく。舞がひととおり終ると幕の中の最後尾の者が幕を持ち、その他の幕に入っていた人は下がる。そうして最後に獅子を被った人が獅子頭を奉持して口を開けて参列者を噛む真似をしながら御祓と再び神前に獅子頭を安置して拝礼ののち、神楽は全て終了する。古くからの慣習によればこの神楽に関わることが出来る者は、集落内の数えで42歳迄の若者男子とされてきた。但し御産や不幸のあった場合には関わることができない。

神楽の囃子方

 神楽連中は全員が黒の一重の着物に黒足袋を着け、獅子頭を被る人だけ袴をはくものとされている。囃子方には太鼓大小各一個と太鼓を固定するために一人がついている。
それに横笛一人、手平鉦一人という構成である。囃子は必ず横笛から鳴らし始められる。
 この神楽の舞は、五段に分けることができるとされ次の通りとなっている。
もみ出し・幕の中に大勢の人がはいる

 

1.よせ 〜 よせの囃子で舞手が神前に進み獅子
       頭を被り幕取が付いて準傭をする。
2.もみ出し 〜  素手で幕を持ち三方をもみ出す。
3.幣束の手 〜 幕取りから渡された幣束を右手に
        持って三方を振る。その後で幣束を左
        手に持ち替え拝む。
4.鈴の手 〜 幕取りより渡された鈴を右手に持
        ち、もみ出しと同じように舞う。

鈴の手・幣束と鈴を持ち舞う

5.狂い 〜 四方を廻り定位置に返る。太鼓と舞手
        の問答がある。
 太鼓(打手)が「やっこさく」と言えば、舞手は「天照大神」と答える。次に太鼓が「菩薩は」と言うと、舞手は「八幡菩薩」「私はノリカス大明神」と唱える。
 次に「宮獅子」がある。これは五段の舞が終って舞手は獅子頭を持ち、幕持ち一人がそれについて獅子頭で噛む真似をしたり、かざしたりして人々のお祓いをするものである。
 舞方は年に一度の祭りなので二年、三年位かかって舞を覚えたという。特に獅子頭を採って舞う者は獅子の幕の中に多勢入るため早い動きのところを揃えなけれぱならないとされて、可成難しいといわれている。現在は消滅してしまったが「狂い」の時にはササラがついたもので、本来はササラと獅子との問答となるものであったのが、今日では囃子方と獅子の問答となっている。この「狂い」の囃子はテンポが早くなり、ササラスリは獅子の尾を取ったり、鼻を叩いたりしてササラが獅子をからかうものだったとされる。これから恐らく「狂い」とは次第に拍子が早くなり神懸りの状態にまでたかまるような態を顕わし、さらにその上での問答は一種の詫宣を意味するとみられる。こうしてみると「狂い」には重要な舞態が秘められていると考えられるのである。
 秋田県内において獅子舞は全県的に存在しているが、神楽獅子と呼ばれている民俗芸能も築館に限らず諸所にみられる。鳥海町大栗沢神楽獅子や伏見神楽獅子、ニツ井町羽立神楽獅子などである。これら囃子や舞の動作は必ずしも同様ではないが、獅子は被り獅子で御幣や鈴を手にもって舞うことはこの神楽にあって共通する面である。しかし、築館の神楽獅子は幕の中に多勢が入り一体となり舞うのは秋田県内では比較的珍しい要素の神楽といえよう。ところで、祭礼において行われる獅子舞にはどのような意味があるのだろうか。獅子舞は神前奉納の神技芸能であることはまず疑いのないところである。獅子舞はこの地方においても単なる一娯楽芸能ではなかった。何故ならば、その一つとして獅子頭は権現としての神と崇め、必ず神前に安置されて拝礼の後に舞われるというものであるから、ここには確かに信仰が介在しているといえよう。もう一つには、古くから由利地方には伊勢信仰が根強く幅広く流布している。この築館にも伊勢講があり、嘗ては上、中、下と集落内に三組あり毎月15日に講中を行ってきた。嘉永9年以降の記録がある講帳もみられることから、早くから講中を組織してきたことでもその信仰が窺いしれよう。
 この講中は年二回となってしまったが今でも続いている。
 獅子舞をここで大まかに分類すれぱ三匹獅子(一人立)の風流系、それに伊勢太太神楽系並びに番楽系(二人立)と分けることができようか。この中で特に伊勢太太神楽系は、大きな獅子頭に大きな布を着け、その中に普通では二人入り、鈴や御幣、剣を持って舞うものが全国各地に伝わっている。築館神楽もこれらの要素から伊勢流太神楽の流れを汲むものだと考えられる。採り物や舞態からぱかりではなく「狂い」に名残る問答においても、お伊勢様即ち「天照大神」という言葉からも解ろう。さらには、八幡・八坂神社の境内に「神楽大麻」という石碑があり古い方が破損したため昭和31年4月に新規建立されて、現在は二基存在するが、古くから神楽連中の大事にしてきた碑とされ神楽に深い関係を持つと言われている。この石碑に刻まれている文字の「神楽」とは神事で行われる舞楽であるだろうし、「大麻」は、伊勢の神宮から授与する御札を意味していよう。これらから築館神楽が伊勢信仰と非常に深い関わりがあることに間違いないだろう。
 築館神楽では、獅子の幕の中に多勢の人が入り舞うことは県内ではめずらしいものであるが、その理由を獅子の体の枠を取らなければならないためといっている。それにしても七、八人もの多勢が人る必要があるのだろうか。悪霊を祓い、無病息災、五穀豊饒などを願うとされる獅子舞であるならばその獅子の体を大きく見せることでその願いが叶うとされたものなのか。それとも、小さい村なので若者中がこの神楽に必ず全てが参加しないといけないものとしてきたことからだろうか。あるいは極めて特殊な舞態によるものか。
 憶測ははかりしれない。口碑も些少となっている築館神楽だが、逆にみればこの神楽が近在における伊勢信仰の解明の一助ともなると考えられるから、芸能と信仰の結びつきをこの地方一帯の神楽とを総合的な視点でみる必要があろう。それにしても、築館の小集落にこのような神楽が今日まで受け継がれていることには、この村の安泰を願う先祖の人々の心がこうした神楽に顕われているように思われるのである。

福田由里子 著

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