矢 島 藩 文 教 の 始 祖

佐藤治兵衛維周とその門人達

佐藤治兵衛

 治兵衛は諱(いみな)は維周、字(あざな)は驪ィ(ていきょう)である。宝暦九年(1759)11月新荘の農家に生まれた。幼時母と伯父定蔵法師の感化を得て学門を好み、若くして英才のほまれが高かった。門人大井光曙の記録によれば「家貧しくて筆硯なし。幼にして常に妹を負い、竹を切り墨つぼとなし、他家より古筆をもらい、手習いをなす。平生農業を努むる時に、田に行きては書を懐中より出し、田のあぜにて見、山に行きても書を見、片時の間も怠ることなし。寛政6年、親章公新荘の田の神山にきのこ狩においでなられ候節、人足の小屋に休みし時、即興に秋声賦の文を作り、人足に見せければ、親章公御読みになられ、殊の外奇なりとして、御館へお帰り、お尋ねになり・・・。」とある。寛政7年、治兵衛37歳にして召出され、藩公の供として江戸に出て後、亀田鵬斎に師事し漢字を学んだ。治兵衛のの学徳は、鵬斎門下においても秀いでたものであり、門下は申すにおよばず、師鵬斎さえも礼をもって遇したと伝えられている。文化2年47歳の時学なって帰郷し、藩に仕えて蔵役となり、後班中扈従(こじゅう)となった。まもなく昇進して代官用処となった。晩年役を辞して後、弥勒母山に庵を結んで、もっぱら瞑想にふけったが、文政9年5月24日病を得て没した。齢68歳。治兵衛の学問は折衷学であり、遺著も数多くあったと考えられるが、文化12年の類焼の災にあって、そのほとんどが焼失してしまった。現在ただ「すくろのすすき」「穫猿解(かくえんかい)」「安楽盧記」等の文が残されているだけである。治兵衛は、幼時より仏道に関心があったとみえて、大井光曙の遺文には「定蔵法師の仏書を見て出家せんと田代林沢寺に行くに家より尋ねられ果たさず。」とある。晩年は仏門に帰依したものか、今に残されてある遺言状や十大願等の文によると漢学者よりむしろ悟道の域に達した聖僧の感が深い。これも伯父定蔵法師の深い感化によるものと考えられよう。

 

定蔵法師

 定蔵法師は新荘に生まれた。31歳の時出家して高建寺に入り、後各所の寺を巡って修業を重ね、明和7年、齢41歳にして再び高建寺に帰りその首座となる。まもなく辞して後旅を重ね、その間月桂庵(滋賀県)、長松寺(兵庫県)等の往事となったが、旅の心おさえ難くひょう然と各所を巡り歩いて、居所常に定まらないものがあった。寛政8年郷里に帰り、庵を結んで禅をもっぱらとした。文化5年没。齢79歳。京都にあった時烏丸式部卿より歌道を学び、諸国巡錫中随所に歌をよんだ。その歌集「禅余草枕集」20巻は現存している。旅に生き、自然を友とした歌僧を知る好材料である。

 

大井光曙

 大井光曙、名は光曙、通称直之助、圭斎と号した。寛政9年舘町に生まれた。性正直にして情に厚く、いやしくも世人に迎合することはなかった。幼より学を好み、長じて後治兵衛について学び、没後小室虚斎について学ぶ。後、江戸に出て蘭医学を研究し、その道に精通した。帰郷して医業に従事するかたわら、暇さえあれば、子弟に経書を講じ、教育に身をつくした。治兵衛なき後、文教の維持発展に努めた功績は大きい。弘化2年(1845)病にあい没した。齢49歳。寿慶寺にその碑が建てられてある。

 

土田近信

 土田近信、通称丈七と称し寛政元年藩士の子として生まれた。幼より賢才秀いでたものがあった。後、経学を治兵衛に学ぶ。又、書と国学を屋代弘賢について学ぶ。又、画をよくし、特に南画をよくした。長じて後藩士として藩政にあづかったが、その功績が多かった。特に天保4年の大飢饉の時に、藩命によって米穀の買い入れに越後、酒田の間を奔走し難民救済にあたったが、不幸にも病にかかり、この年酒田において没した。齢46歳。

 

植田務本

 植田務本、通称三郎、天明5年築館の農夫の子として生まれた。幼時より読書を好み経学を治兵衛に学ぶ。老いて後も経書を離さなかった。村里の幼童を集めて教えることを唯一の楽しみとした。常に神道を信奉し、鳥海山に登ること98度にも及んだ。号を鳥岳と称するのもこれによる。弘化3年中風にかかり2月28日に没した。齢62歳。教えを受けたものたちがその死をいたんで前杉に碑を建てた。

 

須藤高保

 須藤高保、大須郷村(象潟町)に生まれる。通称儀右衛門、名は高保、又敬斎とも号した。代代矢島藩の名主の職にあり、その関係から学を治兵衛に学んだものと考えられる。後江戸に出て書を関克明、国学を屋代弘賢に学ぶ。帰村して後もっぱら子弟の育成にあたった。治兵衛官を辞して後、数度彼を訪れ、出家の志を述べる等親交が深かった。天保元年11月15日没。年齢不明。

 

矢島の歴史より

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