由利十二頭の豪傑
大井五郎満安
 
 大井氏は五郎満安の代にいたって、仁賀保氏に至って、仁賀保氏との間に烈しい争いを繰返した。この大井五郎は抜群の豪傑であり、近世初期にできた由利十二頭記(一名矢島十二頭記)という本には、もっぱら彼の活躍ぶりばかり記されている。
 五郎は大力無双、身長六尺九寸、四尺八寸の大太刀を指三本で扱うことができたと伝えられ、その愛馬も陣貝の音を聞くと勇み立って大豆八升を食うので、八升栗毛と名付けられた駿馬であった。
 彼の闘争は、永禄3年(1560)の滝沢氏との対戦から実に33年間に及び、終始その剛勇ぶりを発揮したが、仁賀保以下十一氏の連合軍を引き受けて戦い、ついに文禄元年(1592)7月、荒倉館の決戦に敗れて西馬音内に逃れ、やがて切腹して生涯を終えた。
 文禄元年といえばすでに豊臣秀吉の全国統一が終り、諸大名の大軍を朝鮮に送って破竹の進撃を続けていた時である。それに比べれば、由利地方の十二氏の闘争は至って規模の小さなものに過ぎないけれども、大井五郎の勇名は実に高いものであった。
彼はたしかに矢島の生んだ第一の豪の者であった。
 大井五郎について両軍記は好戦的英雄として取り扱っているが、戦争の経過から見ても、相手から戦争をしかけられて、やむなくたった場合が多い。したがってこの時代の対外関係をよく観察しないと、実情を理解することは困難である。由利十二頭記の記事は、ほとんど大井五郎の独壇場で剛勇無雙の戦場往来の記事で満たされている。しかしその言動のはしばしに典型的武士道精神がうかがわれ、古えの由利維平の風格をしのばすものがある。

大井五郎満安の菩提所「高建寺」

大井五郎満安の墓

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