延宝年間の農民運動

笹子 仁左衛門

  
 この騒動は、三代藩主親興の頃のできごとであり、又矢島へ移遷された37年後のできごとであった。当時藩の財政の困窮、飢饉等による農民生活の窮迫、藩主の不在、家臣間の紛糾抗争等相よって、ついに藩の運命に影響すると思われるほどの大きな騒動となってしまった。
 延宝5年(1677)江戸におった藩主が、藩の財政の窮迫を救う政策を国元の重臣三浦伊右衛門等の山本一族に下問になり、三浦等は、検地による年貢増額の策を具申し、藩主がこれを採択したことからはじまる。
 主がこれを採択したことからはじまる。
 命をうけた三浦等は、領内の検地を実施した結果、35,000石の水帳を作り、藩主に上申した。生活の苦難にあえいでいた農民は、驚き総百姓の名をもって国元の重臣へ訴状をもって嘆願したが、何の返信もなく、年貢上納の時ともなれば、督促もきびしさをきわめたので、農民は、たえかねてついに離村、逃散等が相次いでおこった。農民等は、協議、城内村の権右衛門、興屋の庄左衛門、猿倉の与兵衛、新所の重郎右衛門ら4人の発案によって、当時勘当浪浪の身であった金子久左衛門を彼等の味方にして、彼の指揮にしたがって山本一族と対抗して、その立場を有利に転じようとした。この四人は、仙北に居った金子を探しあて、ひそかに矢島に帰らせ、彼の策にしたがって延宝7年、再び嘆願書を差し出し、さらに江戸の藩主へ直訴することにした。その総代として中山村の弥惣右衛門、荒沢の八郎右衛門、上川内仁右衛門、新所村助三郎と、それに金子久左衛門、小助川治郎右衛門が加わって江戸にのぼった。そしてじきに藩主にあい、山本一族の暴政と農民の苦しみを訴えた。驚いた藩公は、山本一族に切腹を申し付け、又、その方等の力によって農民の苦しみを救うようにとの命を下した。
 目的を達成した金子等は、国元へ帰って後、領内の農民を根井館付近に集め、藩主の意向を伝え、山本一族を討ち取るようにとそそのかした。喜んだ農民は、金子、小助川の指揮にしたがって、山本一族の屋敷を急襲した。驚いた彼等は、応戦するいとまもなく、あわてふためいて領内より逃げ去ってしまった。
 江戸表においては、市橋彦兵衛を城代家老に任じて矢島につかわし、金子、小助川とともに藩政にあたらせた。彼等は、まず領内の名主、組頭、百姓総代等を集めて、年貢諸役銭はかねての通り期日までに相違なく上納せよとの命を下した。案に相違したこの一言に一同は、ただ呆然としてなすすべもなかった。その上、年貢上納の時せまっても農民には、納付のめやすなく、ただ騒ぎ悲しむだけであった。役人は命に従わぬ者を捕えて入牢させるなどのきびしい責め方をした。たえかねた農民は、又も逃散、離村をなすもの相ついでおこり、ために領内で空家となったもの326軒を数えるにいたった。
 かかる窮状にただむなしく協議の日を重ねるにすぎなかった時、決然と立ち上がってこの急場を救おうとしたのが、下笹子の仁左衛門であった。彼は、おのが生死をかえりみず藩主へじきに訴え出ること、場合によってはご公儀まで直訴するとの強い一念をひれきして一同の同意を求めた。仁左衛門の決意に感激した一同は、ひそかに江戸に上る準備にとりかかった。まず仁左衛門は願文をつくり、和光院これを清書し領内の百姓984人の連判を加えた訴状を用意して、仁左衛門は12人の者とともに江戸へ越訴の旅に向かった。江戸においては、おりよく藩主にあい、訴状を差し出すとともに、事の実情をつぶさに言上した。驚いた藩主は、早速願いの旨をお聞きとどけになり、さらに仁左衛門等の農民との間に年貢上納の高を一万五千石、上納米三万俵との話合いまでが結ばれ、約束の朱印状まで渡された。
 仁左衛門等は、喜んで国へ帰り、農民を集めて願の旨おききとどけになったことを話し離村、逃散の者を帰村させ、もとの村の姿に復させようとした。しかし、このことを知った市橋等は、小助川治郎右衛門を江戸にはしらせ、仁左衛門等は悪心ある者にして、先に領内より追放した山本一族と謀を交わし、藩公なきものにする悪るだくみを進める、おそべきくせ者なりと言上させた。
 驚き怒った藩主は、朱印状を奪い取り、仁左衛門等を残こらず討ち取るようにとの命を下した。延宝8年7月25日、金子久左衛門を総指揮としたその配下400余人、まず笹子村本屋敷の仁左衛門宅を急襲した。仁左衛門は、家屋を焼かれたが、あやうくその場を逃れ得たが、和光院、上笹子の茂右衛門の息子甚太郎、甚之丞、下笹子の太郎左衛門の父常法等は捕えられてしまった。なお別働隊は直根、百宅方面へ押しかけたが、皆逃げ失せて村中一人も居なかった。
 仁左衛門は、この暴挙に無念やるかたなく、再び江戸におもむいて訴え出ようとした。この決意を聞いて同行を望んだものに「葛ケ平の重右衛門、外山の孫八、才の神の三九郎打越の喜右衛門、石神の五郎助、百宅の治郎右衛門、荒沢菅谷地の新五郎、中山の佐藤主計、下笹子の源兵衛、上笹子天神の作兵衛、笹子下宮の重五郎、真砂の甚左衛門と都合合わせて14人なり。」と鳥麓奇談に記してある。
 延宝8年の8月、再度江戸に越訴の旅に上った一行は、途中最上の天道において江戸より帰り来たった小助川等にあい、はげしく争った。この時、不運にも外山の孫八は捕えられ、彼の捕えられ、彼の所持していた朱印状と訴状を奪い取られてしまった。
 その上、下笹子の源兵衛、直根の喜右衛門、三九郎、葛ケ平の重右衛門等は捕えられて矢島に護送された。そして先に捕えられた和光院等4人と共に延宝8年8月23日裸森において処刑された。
その刑は真に悲惨極まるものであり、見る人皆血涙をしぼったと伝え残されている。

和光院らが処刑された場所

 和光院はこの時32歳、石小詰の惨刑、常法甚太郎、甚之丞は打首、その他の6名は皆磔はりつけであった。
 その後仁左衛門は、仙道藤倉の山中に再挙をはかっていることを知った藩は、秋田藩の加勢を得て彼を捕えようとしたが失敗に終ってしまった。
 仁左衛門の従弟に久八という者がおったが、欲をもって彼をだまし、仁左衛門のかくれ場所を密告させた。
 仁左衛門はついに彼等の術策にかかり、延宝8年閏8月15日、檜山の山中においてあえない最後をとげてしまった。時に43歳。
 仁左衛門をだました久八は、褒美にと仁左衛門の妻おけさを所望した。
 おけさは心中期するところあって、これに応じ婚礼の晩に久八を刺し殺し、仁左衛門の首を奪い、又、天神の作兵衛を獄屋より逃がし、夫の首を笹子村間木の平の山中に埋めて娘とともに他領に逃げ去った。

裸森にある和光院等の墓

 後世の人達はこの首を埋めた所に、一社を建立し、青田神社と称し今もなお祭祀を続けている。仁左衛門を謀殺し、和光院等の極刑を行い、その上朱印状まで奪ったものの農民は逃げ去り田畑は荒廃の極に達した。このありさまが、もし公儀の知るところとなっては、藩の一大事と市橋等は、協議の上、新荘村の与一右衛門に仲裁を依頼した。与一右衛門は、藩と農民との間を奔走し協議を重ねた結果、仁左衛門等が藩主より拝領した朱印状と同じ年貢ならばという農民側の意向を藩側も承知し、延宝8年、四ヵ年もの長い間続いたさしもの農民運動もここにようやく和解が成立し、領内はもとの姿に帰った。
 林基著「百姓一揆の伝統」に「1679(延宝7年)羽後由利郡矢島の暴動化した一揆も藩内の政権争いから反対派の武士が、農民を招集し敵方の家を襲ったのであって、農民自身の運動として暴動化したのではなかった。だから利用されただけで満足されなかった農民があらためて自ら立ち上がった時には、越訴と逃散との闘争形態しかなかった。」
「羽後国子吉川上流の山間部矢島の総百姓退散の場合もこの地方に室町時代からばん居していた、由利十二頭とよばれる土豪の党的結合の勢力と考えねばならない。」と記している。即ちこの騒動の特質は、家臣間の派閥抗争と農民の年貢免除の運動とがからみ合ったところにある。以来320数年、義民の魂はますます光を増しこれをたたえる声も年とともに大きい。
 

矢島の歴史より

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