日本人初の世界一周大航海

三浦東蔵道賢

 
 徳川幕府は、日米通商条約批准のため、外国奉行新見豊前守を正史とした一行77名を米国に派遣することとした。彼らは、万延元年(1860)1月20日米艦ポーハタン号に乗って品川港を出航し、あれ狂う太平洋を乗り越えて米国の首都ワシントンに到着、無事に大任を果たして後、大西洋を横断し、アフリカの喜望峰、ジャワ、香港を通って、日本人として初の世界一周の壮図をなしとげたことは、歴史上著名の事実である。その一行の中に奇しくもふるさとの人が加わっていることを知る人はごく少ないことと思う。

米旗艦ポーハタン号

 その名は、三浦東蔵道賢、矢島町木在の出身である。彼の生家は、代代名主の職にある家柄であったが、いかなる機縁をもってこれに加わり、前人未踏の大冒険をなしとげたかは、全く不明である。しかし、彼が渡米した時、故国へのみやげにと、持参した米国の新聞フランク、レスリー(1860・6・9土曜日刊行のもの)が最近まで矢島町に保存されていた。それにはワシントンでの調印式、その時の日本の使節のようすなどを写真入りで報じた貴重なものであった。
 「万延元年派米使節史料」によれば、御勘定頭森田岡太郎清行の従者に5名のものがあり、その中の一人に「出羽由利郡矢島村 三浦東蔵道賢 34歳」と記されてある。勘定役とは、現在でいえば会計係となるが、東蔵道賢34歳の若さで、よくぞその大任を成しとげたものと感嘆せざるをえない。現在彼の生家には彼の記録になる「航海日記」がある。もとは全5巻であったものと考えられるが、いまは3巻と5巻だけしか残されていない。
 第3巻は、閏3月7日、アメリカ太平洋のアスピンオール港出航にはじまり、ポトマック川をさかのぼり首都ワシントンに到着、滞在時の様子や調印式とその後の状況が記されてある。第5巻は、5月29日米艦ナイヤガラ号にのって大西洋を横断してアフリカの西海岸に近いビルデ岬諸島のひとつ聖ゼンセント島ポルトガランド港に入った時から書きおこし、9月29日、58,600km、九ヶ月間の世界一周の旅を終えて故国に無事帰って来た時までのことを克明に書き記してある。その最後に「世界一周、無恙一同帰国スルコト、誠ニ天幸ト言可シ。」との文をもって結んでいる。無事故国の土をふんだ彼の胸中感無量なるものがあったことであろう。
 当時我が国の航海術は申すにおよばず、外国に対する知識も、絶無に等しいものがあった。彼等が全く見も知らぬ異国へおもむき大任を果たすその心労、しかも世界一周の旅などは、現在の人達の月世界への旅行にも等しいものがあったに違いない。彼等の勇気と努力とえい智に対して心から敬意を献げたい。
 東蔵道賢は、その後ふるさとに帰り、慶応元年、辞世の一句を残してこの世を去っている。

 

矢島の歴史より

 
日米修好通商条約のページ
      日米修好通商条約を結ぶ
                日米修好通商條約(抄)
 

トップページに戻る