織田豊臣時代の由利郡

 
 文禄元年(1592)矢島落城の頃は、織田信長が本能寺で最期をとげてから十年前後にあたっている。従って秀吉の天下統一が着着進み、一方では遠く兵を朝鮮に進めるといった時代であった。その間慶長の役があり、対外問題に没頭した時であるから、国内の争乱は一時休止の状態であった。しかるに慶長三年には突然秀吉が死んだのて、国内の情勢は再び波瀾をよぶ時代となったのである。慶長五年九月十五日になると、大阪方と徳川氏の勢力が対立して、遂に天下分け目の関ケ原戦が起こった。当時東北方面では徳川方の働きかけが行届いていたと見えて、最上氏を初め多くの領主はこれに従ったが、内心は形勢観望の態度を取るものが多かった。関ケ原戦の直前に、最上義光から由利の諸将に対しても、山形に参集せよとの命令が下されたが、途中で大阪方であった上杉景勝部下の勇将、直江山城守が庄内に攻め寄せるとか、また関ケ原戦で大阪方が大勝したとかの誤報があったりして、あわてて国元へ引き返したので、後で問題となり、所領を没収されたものもあった。
 この頃矢島の旧臣は、西馬音内を始め各地で世をしのんでいたが、天下二分の形勢を見て、大井氏再興の好機到来と考えたのである。そこで上杉氏や酒田方面の反最上派と連絡を保って、関ケ原戦に呼応して蹶起したのが、笹子赤館の決戦であった。
 関ケ原戦後は徳川の天下となり、翌慶長六年には各国領主の大異動が行なわれ、西軍に味方した形跡のあるものは、所領の削減や没収が行なわれた。小野寺氏が所領を失ったのもこの時であった。翌慶長7年(1702)由利郡においては、仁賀保氏は常陸の武田5,000石へ、打越氏は同国新宮2,000石へ国替えとなった。その他の由利諸党はそれまでに所領を没収されたようである。かくしてかつての由利十二頭は全く解体しこれに入れ代って最上義光輩下の勇将、楯岡豊前守満茂が由利郡の新領主となり一変した時代となった。ここに初めて平和な時代を迎えたのである。その後元和8年(1622)までの20年間が楯岡時代であった。楯岡氏は始め赤尾津に居城を構えたが、慶長15年(1610)赤尾津が狭かったため、本荘に鶴舞城を築いて移った。
 楯岡氏二十年間の由利郡統治の中で、特に矢島の扱いに注目しなければならない。
 当時由利郡は、55,000石の内、楯岡氏40,000石、滝沢氏10,000石、岩谷氏3,000石、外1,858石は最上の蔵入となっているが、矢島には豊前守の弟である楯岡長門守満広を置いて治めたことである。その外由利十二頭記に「慶長9年3月御藤(鶴姫にあたる)を矢島40人の取計らいにて楯岡長門守殿の奥方となす」とあることによっても矢島の統治にあたって、特別の取扱いをしていると見なければならない。
 元和8年8月になると最上氏が没落した。それと同時に豊前守も由利郡の所領を没収されたのである。その時豊前守、長門守両人は前橋藩主酒井雅楽頭に預けられた。その後3,000石の所遇で仕えたことになっている。この時滝沢氏、岩谷氏も由利郡から姿を消した。
 これに代わって同年10月、宇都宮の釣天井で有名な本多正純が、宇都宮200,000石から由利郡領主として左遷されたが、問もなく将軍秀忠の怒りにふれ、横手に配流されたが、その間わずか一年足らずであった。
 翌元和9年になると、かつての由利十二頭であった仁賀保氏が、旧領仁賀保10,000石へ、また打越氏が矢島3,000石の領主として何れも復帰した。その外六郷氏20,021石その外六郷氏20,021石が本荘へ、岩城氏20,000石が亀田へと国替えになった。
 その後寛永5年に仁賀保良俊が死んで7,000石が上り高となり、ついで寛永12年打越左近光久の死去により、矢島3,000石が上り高となり、一時庄内酒井藩の預かりとなった。かくして寛永17年になると、讃岐176,000石の領主であった生駒氏が、矢島10,000石に左遷されて来るまでまことにあわただしい変遷をたどったのである。
 
1.矢島旧臣の赤館の決戦
 矢島旧臣の大井氏再興については、修験の普賢坊などによって、早くから鶴姫擁立の運動が展開されて、関ケ原戦の機会をうかがっていたことは前に述べた通りである。慶長5年9月15日が関ケ原戦の行なわれた日であるが、矢島の旧臣40人は、それに先立つこと7日前の9月8日に、仁賀保氏の守る八森城を突如襲撃してこれを占拠したのである。それより以前に上杉氏と密接な連絡をとり、9月10日には援軍が来る予定であった。
 しかるに上杉氏の軍が、途中庄内で最上氏の軍にはばまれた結果、約束通り行かなかったので、やむなく笹子赤館に退いて防戦したのであろう。
 矢島浪人蹶起の報は、よほど重視されたと見え、由利の諸党は直ちに全軍をあげて攻め寄せた。このことから考えると、その時豚起したのは矢島浪人40人だけとは考えられず、恐らく小野寺氏を始め、反最上派の浪人も多数参加したからであろう。この戦については、後日秋田実季が、家康から西軍に味方したという嫌疑を受けた時、その弁明に、矢島浪人蜂起の際、白然古(笹子)に2,000の援兵を出したことで申し開をしていることによっても、赤館に大部隊が集結した様子がうかがわれる。私は今日まで赤館の地点を明かにしなかったが、昨年の夏、西馬音内の帰り路、ここを訪ねたが、意外にも笹子街道から直ぐの所にあった。山を越せば西馬音内といった地理的関係から見ても、八森城からここに退いた理由が分かったのである。この赤館の戦は、矢島浪人最後の決戦であった。奇しくも関ケ原戦の行なわれた9月15日に落城したと伝えている。
 
2.楯岡豊前守の由利郡領主時代の矢島
 豊前守が由利郡の領主になった直後、弟の長門守夫人に鶴姫を迎えたということは、矢島浪人の尽力もさることながら、よほど矢島の特殊性を認めた措置でなかったかと思われる。かかる親密なつながりが出来たためであろうか、鶴舞城の築城にあたっては、矢島から2,500人の人夫が出動したという記事が見え、また今に残る当時の本荘城下の絵図面に、長門守や小助川氏の屋敷が見られるのも、大井氏の遺臣とどんな関係にあったかが察せられる。
 この楯岡氏時代に関心を持ったのは、矢島の歴史にとってその時代が空白になっていることと、鶴姫との関係があったからである。幸い楯岡氏が由利郡を退去してからの足跡が分かって来たので、あるいはその子孫がどこかに存在するのではないかと思って調査にかかったのであった。
 豊前守は由利から退去後は、群馬県前橋の領主、酒井雅楽頭に預けられたが、後には3,000石で召しかかえられていることが分かった。その後酒井藩は寛延2年(1749)前橋から姫路城主に転封したのである。赤穂方面を調べた結果、その子孫は神戸に在住している本城氏であることが判明した。本荘城下の絵図面もこの家が伝えていたのである。楯岡氏の本姓は本城氏であるところから、姫路時代は本城氏を称して番頭の重職にあった家である。
 この家が伝える系図を見ると、豊前守には男子がなかったので、息女に長門守の嫡男親茂を迎えてその後嗣としたが、親茂は若くして死んだので、今度は長門守の息女に寺内遠江守の子信義を迎えて今日に至っている。このように長門守の子孫が本城氏になっているのであるから、もし長門守の夫人が鶴姫であるならば、本城氏は鶴姫の子孫ということになるわけである。
 また豊前守時代の本荘城下の図を兄ると、本荘市の基礎はこの人によって作られたことを知ると共に、本荘の地名も、この本城氏から出たとまで考えられる。古記録によれば本荘を初めは本城と記していることでも証明されよう。
 
○矢島対滝沢の鳥海山道の問題
 鳥海山の山争いと一般に称せられるものは、徳川時代に入ってから、吹浦対蕨岡、矢島対蕨岡の問で激しく行なわれたことは、周知のことである。それより以前の対立は、慶長19年矢島対滝沢の間に行なわれた争論であった。
 どんな問題であったかというと、矢島と滝沢とが順逆の出入について、出羽十二郡の領内頭である最上の行蔵院に訴えたということである。順逆というのは、修験道修業の方式で、順峰は天台宗に属し本山派と称し、逆峰は真言宗に属し当山派と称している。このことから考えると矢島は真言宗福王寺を中心とする逆峰修業であり、滝沢は天台宗滝洞寺を中心とする順峰修業である。このように順逆の区別が明らかであるのに、その出入について争論が起こったのは、要するところ鳥海山裏口の主導権争いではなかったかと推測される。
 この時滝沢は10,000石の領主であり、しかも滝洞寺院主の意風は、領主滝沢兵庫の弟であったところから、権勢によって矢島を抑えようと思ったのでなかろうか。その時矢島は修験頭の喜楽院が、最上に上って奔走した結果、先規の通りということで、矢島の勝訴となった。そこで意風は最上から上方へ浪人したと記されている。鳥海山に関する訴訟で矢島の勝訴となったのは、まことに珍らしいことであった。
 そのわけは先ず正当な理由があったことと、今一つ矢島は楯岡長門守時代であったことである。滝沢も院主が領主の弟であったにしても、矢島は豊前守の弟が矢島の領主であったから、ひけを取らなかったのであろう。その後の時代においても、矢島は正当な理由があったにかかわらず、敗訴に終っているのは、領主の権力が庄内に及ばなかったからであった。
 
3.打越氏時代の矢島
 元和8年(1622)に楯岡氏が由利郡を退去し、翌9年には常陸から打越氏が矢島3,000石の預主となって由利郡に復帰した。かつて十二頭の一であった打越氏が、何故矢島に所領替えになったかということである。偶然といえばそれまでだが、何等かの因縁があったもののようである。
 打越氏の矢島国入りの時は、その旧臣であったという菅原氏の案内によったとされている。この菅原氏について考えると、矢島は一時仁賀保に占領されていた時、その代官として菅原勘介の名が見える。矢島には古くから菅原氏の天満宮があったことから考えると、その一族と矢島のっながりがしのばれる。打越氏の矢島領主時代約12年問のことは明らかでないが、残っている古文書から見ると、新田開発のものが多い。新田開発はすでにに楯岡長門守時代から始められているが、今まで戦乱によって荒廃した地域の復興につとめた新しい時代を迎えつつあったことがうかがわれる。
 今一つ打越氏時代注意すべきことは、大井氏時代の有力な氏族がどうなったかということである。打越時代のことは分からないが、大井氏の旧臣であった小助川、金子、小番氏等が生駒氏時代になると、地元の有力者として存在したばかりでなく、家老の重職についていることを見ると、楯岡、打越氏と領主が変わっても、地元の主流として少しも変わらなかったことが分かる。その外根井氏も、生駒氏時代の初め、矢島の最有力者として存在していたことが最近になって判明した。延宝5年の百姓一撲が起こった時、山本一党と称する遠藤家があったが、この家は根井氏が領主の地位を失なった時、改姓して遠藤氏を称して、家中の山本小路に住居をしていたので山本一党と呼ばれたのである。
 打越氏は寛永12年(1635)打越左近光久の急死により断絶するまで、矢島の領主であった。矢島立退き後は、各地を転転して、最後は大和の郡山藩に仕え、子孫は現在大阪に残っている。
 その後寛永17年(1640)生駒氏が矢島藩主になるまでの約5年間は、一時庄内の酒井藩の預かりとなり、代官稲垣忠左衛門がやって来て、地元の有力者、金子久左衛門、山田与右衛門等が斡旋の労を取っていた時代もあった。かかる経過をたどって次の生駒氏の時代に入るのである。

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