室町時代の由利郡

 
 室町時代の初めは一時小康を得たように見えるが、南北朝時代の対立関係があった上に、幕府も権威を失ってくると、間もなく戦国争乱の時代に突入した。
 由利郡も戦乱によって、よほど疲弊したものと見えて、記録も古伝も由利十二頭記以外は何も認められない。そのためと思われるが、十二頭記では郷土の歴史を応仁元年(1467)から筆を起こし、この年に由利十二頭が信州からやって来たと記している。そうかと思うと、「矢島の先祖義久の由来は応安元年巳酉(1368)より応仁元丁亥までの内百年になると申侯」などと、謎をふくめた記述をしているのは、それまでに長い空白時代のあったことを示すものであろう。
 その後は全国的に戦乱となり、由利郡も矢島、仁賀保の対立抗争にあけくれた時代となった。由利十二頭記、奥羽永慶軍記は主として矢島、仁賀保の対戦を述べたものである。今この両戦記物語を読みなおし、また他郡との関係を調べて、この両者の対立がどうして起こったかを解明しなければならない。
 
1.打越旧記から見た郡内の所領
 打越旧記を初めて見たのは、旧矢島領主打越氏の子孫を大坂で発見した時であった。これは珍しいものだと思ったのであるが、その後姓氏家系辞典の中にこれと同様のものがあることを見て、一層注目すべきものと考えた。この旧記には、応永末年までの郡内領主と記されているから、由利異説につぐ時代を示すものと見ることが出来る。
       打越旧記
   楠氏の一族、仲太郎          又次郎光重滝沢住(小笠原氏族)
   小三郎光宗子吉住(小笠原氏族)  四郎左衛門光貞赤宇津(池田氏)
   式部光安玉米住(小笠原民)     鳥海三郎西岡住
   新田義貞一族長浜住         羽根川修理太夫長浜同住
   左兵衛岩倉住(小笠原氏)      木曾左馬介矢島住
   弥八郎石沢住
            右は応永末年の事也
 この中で注目すべきことは、由利異説にあった四郎左衛門光貞が赤宇津住はそのままで、八森古城にいたという又次郎光泰(光重)は滝沢住と変わっている。その後の矢島対滝沢を考えると、ここに新しい問題を投げかけている。
 その外この旧記には楠氏の一族と、由利氏の子孫と思われる仲太郎との合流の形が示され、これが後の打越氏になったとの古伝と合致している点にも興味が持たれる。
 中でも不思議に思われることは、後の由利十二頭の旗頭と称せられる仁賀保氏にあたる領主が認められないことと、当時は仁賀保の地域に鳥海氏の居ることで、これ等が注目すべき点である。
 
2.応仁元年の由利十二頭の結成
 由利十二頭が結成されたという応仁元年は、いよいよ戦国争乱の時代に入った時である。由利郡の状態を考えると、当時打越旧記にあるような領主がいたにしても、楠氏や新田氏の子孫を含む領主の形体では、その存立が許されない時代でもあったのであろう。
 また民間の伝承によれば、当時無郡司時代となり掠奪暴行が行なわれたので住民の代表が鎌倉に陳情した結果、十二頭が信州から下って来たというのである。このことは、信州から下ったというのは遠い昔のことであったが、この時代新しく編成がえしたのが応仁元年(1467)であったと解するのである。その時の十二頭と称するものはつぎの諸氏であった。
   仁賀保、矢島、赤宇津、子吉、打越、石沢、岩谷、潟保、鮎川、下村、玉米、
   滝沢(鮎川の代りに羽川を入れる説もある)
 
3.矢島、仁賀保の闘争とその原因
 十二頭記には、矢島の大井氏と仁賀保氏はもと一家であると記されている。そのような一族同志がどうして30年もの間、死力をつくして戦ったかということである。由利十二頭記には、年代を追って、両者の戦争状況を述べているが、深い原因らしいものには全くふれていない。それ故戦況については十二頭記にゆずり、ここではどうして深刻な問題となったかをたずねたい。
  ○永禄元年以来の矢島滝沢の対立
 矢島、仁賀保の長年にわたる対戦が始まる前に、矢島、滝沢の対立があったことは、あまり注目されていないが、これが郡内動乱の直接の原因と見られる。
 この対立がどうして起こったかというと、永禄元年(1558)履沢左兵衛という秋田の浪人が根井氏の仲介で大井氏を頼り、矢島の履沢に小城をかまえていた。その履沢が滝沢領主、滝沢刑部とひそかに語らって、矢島を亡ぼす計略をめぐらしていたことが、発覚したことによるものであった。履沢はその年の12月29九日、大井五郎の夜討ちによって滅ぼされたが、その背後にあった滝沢との対戦が、永禄3年からしばしば行なわれたのである。これがもとで、後には仁賀保が滝沢を応援したことから遂に矢島、仁賀保の対戦になった。そこで先ず矢島、滝沢対立の原因を探ると、所領の上での対立関係があったのではないかということである。
 由利異説によると、延元元年矢島大井氏の祖と思われる大井光泰が信濃から下って八森古城に落着いたとあるが、次の時代を示す打越旧記には、この光泰が滝沢領主となり矢島には木曾左馬介が居たことからすると、その時代矢島の大井氏は、滝沢、矢島の間に勢力をしめていたとも見られる。その上打越旧記には由利氏の子孫と称せられる滝沢氏の存在が認められない。従って滝沢氏の復活はその後に行なわれたのではなかろうか。由利氏没落の時は、常に庄内の領主を頼ったようで、この時代も他領にあって時機をうかがっていた時代であったと想像される応仁元年由利十二頭が結成された時には、滝沢氏が認められるから、その前後に所領の移動があったと見られる。そのような仮定が成り立つならば、今までの矢島大井氏の勢力圏内に、滝沢氏が入って来たところに衝突の原因があったとも見られる。
 このように両者の対立が始まると、矢島は海岸に到達する道をふさがれ、時には死活の間題に直面した。永禄3年矢島の百姓が百三段(新屋)の市場に運ぶ農作物を、滝沢が途中でさまたげるに至ったという記事によっても、その間の事情を知ることが出来る。 これを当時の対外関係から見ると、滝沢氏は以前から庄内と関係があり、庄内に近接している仁賀保に対しても働きかけがあった時代でもあった。一方矢島は庄内とは反対の立場にあった仙北の小野寺氏と親交があったところから、白然あい対する関係におかれたのである。以上のことから見ると、矢島対滝沢、仁賀保の対戦は、背後にある小野寺対庄内との前衛戦といった形を呈している。
  ○天正十年庄内武藤氏の由利郡進攻
 矢島対仁賀保、滝沢の対戦は約30年にわたって行なわれたが、その中で天正十年(1582)の庄内領主武藤義氏の由利郡進攻は、多くの戦いの中で最も注目すべきものと思う。そのことは十二頭記、永慶軍記には記されてないが、地名辞書や秋田藩家蔵文書にこれに関する古文書があるところを見ると、事実と思われ、当時の対外状勢を知る上で注目すべき記事である。
  庄内古事抄云、金右馬允覚書、義氏屋形の時代油利の内、滝沢攻に、二千越被申、
  城主八島図書を討取。即八島無事になり申候。(地名辞書矢島の条)、大宝寺義氏の
  書状、内越をば小介川一矢島方ならん一より略取したる由、兄ゆれども字句誤詑あり
  て詳にし難し。(地名辞書内越の条)
 この頃の矢島の状勢を考えると、小野寺氏との連合によって滝沢方面まで進攻し、また大井氏一族である小助川氏は、大内村の新沢館(1名小助川館)を中心に内越方面まで進攻していたことが、前の文書で知られる。この状勢に対し、小野寺氏と対立関係にあった庄内の武藤氏は黙視することが出来なかったと見え、天正十年矢島が占領していた滝沢城攻めとなったものと解される。
  その後武藤氏は由利の諸党と連合して、大内村の小助川館まで進攻したのであるが北方から秋田氏が小助川氏を応援したので、武藤氏は大敗を招いたのである。この敗因がもとで帰国後内紛を生じ、天正12年3月に義氏は自害して果てたのであった。武藤氏のこの失敗は、最上義光の謀略にかかったとされている。実はそれより少し前、秋田愛季と小野寺義道の和議が成立していることと、秋田愛季(よしすえ)と最上義光が南北からひそかに武藤氏を挾撃しようとしていたからである。
 この戦いについての今一つの資料が、秋田県史年表に記載されている。
  天正11年1月22日秋田愛季、岩屋合戦における小介川図書助の軍忠を賞す
  (秋田藩家蔵文害)
 この文書から考えると、武藤義氏の滝沢城攻めと、岩屋合戦の時に活躍した小介川図書助と八島図書とは同一人で、大井五郎の代行者と見られる。十二頭記によれば大井五郎はその前後持病が起こったことが記されているから、その時小助川氏が代わって難局に当たっていたのではなかろうか。
 このように天正十年武藤氏の由利郡進攻のいきさつを見ると、矢島対滝沢、仁賀保の対立は、その背後に大国とのつながりがあり宿命的な戦いと見られる。かくして矢島は小野寺氏の敗退と運命を共にせざるを得なかったのである。
  ○大井五郎の最期
 このような周囲の情勢下にあって、大井五郎は好むと好まざるとにかかわらず、死力を尽くして戦わざるを得なかったと見なければならない。当時十二頭の多くは仁賀保に協力したのも、最上の勢力が強大であったからと見られる。これに反して、矢島は形勢不利な小野寺氏側にあったところに悲運をまぬがれることが出来なかった。大井氏と小野寺氏との旧縁については、詳しくは分からないが、地理的関係からの古いつながりと、直接には大井五郎の夫人楠峰松公が、西馬音内の城主小野寺茂道の息女であったことである。当時は形勢次第でどちらにでも動いた戦国時代に、形勢不利と知りながらも、一貫した態度を守ったところに大井五郎の面目がある。
 大井五郎は身体も六尺ゆたかな堂堂たる偉丈夫で、八升栗毛という名馬にまたがって活躍した戦場物語は、敗戦に終ったとはいえ、矢島の人人の血をわかすものであった。三十余年にわたる戦火も、矢島には甚大な被害を与えたに違いない。それにかかわらず後世領主の大井五郎に対し恨む気持を残していないのは、大井五郎の一世を圧倒するだけの威力と人柄によるものがあったのであろう。
 十二頭記によれば、矢島最後の決戦の行われる前年、即ち天正19年(1591)には子吉城を攻めていることを見ても、その中間にある滝沢を攻略していたと考えられる。この頃になると、周囲の情勢は両勢力の対決が追っていた時期であった。かかる情勢から翌文禄元年7月25日には、由利諸党の連合軍が矢島に攻め寄せて、莞倉館の決戦が行われた。矢島の戦力では抗しきれず大井五郎は一旦西馬音内の小野寺氏のもとにのがれて、再挙を図ったのである。
 その後最上義光の進攻はいっそうはげしさを加え、謀略もしきりに行なわれた。そのためであろう、大井五郎を西馬音内がかくまっていることから、本家の小野寺義道と西馬音内の間に不和を生ずることになった。そこで大井五郎は西馬音内に迷惑の及ぶことを恐れ、その年の12月28日自害して果てたということになっている。
 大井五郎について両軍記は好戦的英雄として取扱っているが、戦争の経過から見ても相手から戦争をしかけられて、やむなくたった場合が多い。従ってこの時代の対外関係をよく観察しないと、実情を理解することは困難である。由利十二頭記の記事は、ほとんど大井五郎の独壇場で、剛勇無雙の戦場往来の記事で満たされている。しかしその言動のはしばしに典型的武士道精神がうかがわれ、古えの由利維平の風格をしのばすものがある。

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