平安時代の由利郡

 
 奈良時代までの陸奥、出羽方面の状況を見ると、重要地点に軍事上の拠点を置いて、その附近に集団移民を行なっている。その後これと先住民とのまさつを生じたのが、平安時代前半における東北の歴史であった。
 桓武天皇の延暦10年(791)坂上田村麿の蝦夷征伐にはじまり、つぎには前九年、後三年の反乱となり、最後は頼朝の藤原氏追討に至るまで、一連のつながりのあることが認められる。
 このように平安時代、蝦夷の反乱が激化して重大問題となったことを考えると、蝦夷と称せられる先住民は、多数の人口と勢力を持っていたものであろう。しかるに矢島方面だけから見ると、古来先住民についての特別の伝えがないのは、蝦夷といっても、わが民族とさほど違った種族ではなかったのではあるまいか。
 この時代になると、由利方面の開拓もよほど進んだと見えて、記録も比較的多く認められる。その中から二、三を拾って、郷十の開拓時代を考えよう。
 
1.鳥海山の噴火と朝廷の奉祭
 奈良時代以前からの植民によって、わが民族が北進するにつれて目についたのは、秀麗な鳥海山であった。古来山岳に神霊を求めて崇拝することから、この山に大物忌神を祭るようになった。その年代は詳しく分からないが、吹浦旧記によれば、平城天皇の大同年問、大物忌神を飽海岳より吹浦に遷し奉ると伝えている。
 平安時代蝦夷の反乱がしばしば起こったが、同じ頃この山の火山活動がさかんになったことも、いっそうこの山の神霊に威力を加えたものであろう。この活動は何時から始まったかは分らないが、地元の伝えによれば、桓武天皇の延暦23年(804)鳥海山火あること3年とか、また直根旧記によれば、平城天皇の大同元年(806)地震あり、鳥海山の地心鳴るとかの記事が見える。このように平安時代の初めから火山活動があったが、仁明天皇の承和5年(838)になると、朝廷がこの山に対し、叙位叙勲を行なったことが歴史(続日本後紀)の上に記されている。
    出羽国従五位上勲五等大物忌神に正五位下を授け奉る。
 ついで仁明天皇の承和7年(840)にもつぎの記事がある。
    正五位下勲五等大物忌神に従四位下神封二戸を授く。
 このようにしきりに神階が昇進して、朱雀天皇の天慶2年(939)には、さらに昇格したことが本朝世紀に記されている。
    正二位勲三等大物忌明神山燃ゆ。
 その後のことは、不明であるが、徳川時代桜町天皇の元文元年8月には、ついに正一位の神階の宣旨が下されている。
 以上朝廷の奉祭を考えると、この山の火山活動と同時に蝦夷の反乱が起こったので、これを神威の発動と考え、戦勝祈願をこめて昇叙が行なわれたものであろう。
 大物忌神は本来農蠺神として奉祭されたのであるが、後世国家有事の際、戦勝祈願の信仰を生じたのは、この時代の由来にもとづくものと思われる。
 この頃になると、恐らく登山口にあたる吹浦、矢島、蕨岡等には、この神を祭る社壇も作られ、農耕の開発と共においおい集落が形成されつつあったことが想像されよう。今から考えても、庄内、由利の沃野に、農耕の神である大物忌神が祭られたということは、まことに因縁の深いものがある。
 また火山活動と同時に蝦夷の反乱が起こったという不思議な現象によって、神階の昇叙が行なわれたことは、恐らくこの山の特異な点でなかろうか。
 
2.鳥海山道の開発と修験道
 奈良時代、出羽方面の植民にあたっては、信州を始め各地からやってきたことは前にも述べたが、由利方面には信濃方面の氏族との関係がもっとも深かった。この中で、もっぱら鳥海山の山道開発に従事したものとして、美濃国からやってきた矢島の土田氏の古伝がある。その先祖を祭っているのが鳥海山下、木境にある開山神社で、その縁起にはつぎのように述べている。
 一、宣化天皇五世の孫、中納言広成の男、従四位多治比真人貞成の孫比良衛、多良   衛兄弟二人、美濃国可児郡土田村に住す。
 一、仁明天皇嘉祥3年(850)出羽国に来り、同年6月15日創めて鳥海山麓東北の小   径を開き、永世荒沢に住す。
 この伝えは、古い家伝をまとめたものであろうが、これによっても修験道の伝播に先んじて、このような開発がなされていたことを物語るものである。その子孫は発祥の地にちなんで土田氏を称し、矢島の荒沢郷を中心にひろがっている。
 なお土田氏の本姓は多治比とあるが、当時中央から出羽方面にっかわされた官吏の中には、多治比姓の人々が歴史の上にも見えるから、矢島の土田氏もその一族であったとも考えられよう。
 矢島の開発は、鳥海山に水源を求めて農耕に従事すると共に、農蚕の神をこの山に祭って、開拓につとめた当時が偲ばれる。
 大物忌神は神祗志料によれば、倉稲魂神であるとしている。この神は豊受姫神と同神で、天照大神の朝夕の御饌調進のことを掌り給う神であるから、汚れを忌み、清浄を旨とされたので、大物忌の名が起こったとされている。
 またこの山道の開発があってから間もなく、鳥海山が修験道の中心道場となったことが鳥海山縁起につぎのように記されている。
  仁王56代清和天皇朝、貞観12年庚寅、醍醐の聖宝尊師、津雲出之郷(矢島の旧郷 名)より再興し給ふ。矢島の峰中是也。
 修験道がこの時代、京都醍醐寺の聖宝尊師によって伝播されたかどうか、このまま信じられないが、近くに東北修験道の霊場である羽黒の修験もすでにあったのであるから、鳥海山にも間もなく伝播したものであろう。
 鳥海山修験道の中心は福王寺で、その下には後世18坊があって、農耕に関する行事や、祭事の一切を支配していたのである。明和6年(1769)に造られた福王寺の鐘銘に鳥海山別当、学頭福王寺73世、現在法印宥程とあるから、その代数によってもその古さが分かる。
 矢島にはその後、各宗派の寺が建てられたが、応永34年(1427)に禅宗の高建寺ができるまで、約550年の長きにわたって、宗教、文化の上で矢島に大きな影響を与えたのが、この修験道であった。大井五郎の家来として活躍した修験の普賢坊が、紀州の熊野に参詣がてら、京都の状勢をさぐってきたことによっても熊野、吉野方面との往復のあったことが知られ、都との連絡、文化の伝達等はこれら修験によってなされていたことが分かる。
 
3.和名抄にある由利郡内八郷
 奈良時代までは、歴史の上で由利柵以外は地名らしいものは認められないが、平安時代天暦の頃(天暦元年は947)になると、初めて和名抄に由利郡内八郷の名称が見える。和名抄というのは、わが国最初の辞典ともいうべきもので、事物の和名を分類したものである。これによって当時地勢の上から由利郡を八区分されたことが知られ、資料にとぼしい郷土の昔を考える上で、まことに興味が感ぜられる。
 この中で特に注意すべきことは、当時由利郡はまだ成立していなかったことで、子吉川を境として、北は河辺郡、南は飽海郡であった。このことを確認しないために、後世いろいろあやまりをおかしている。その八郷とはどんな区分になっていたであろうか、要点だけをつぎにかかげよう。
  飽海郡に属する三郷
    雄波郷(仁賀保方面)由理郷(本荘を中心とする子吉川南部)余戸郷(矢島、滝沢   方面)
    河辺郡に属する五郷
    中山郷(子吉川の北方矢島の中山、石沢、玉米方面)川合郷(打越、岩谷、小友    方面)邑知郷(上川大内、下川大内方面)田部郷(亀田、松ヶ崎方面)大泉郷(道    川、下浜方面)
 これによっても、時代の進むにつれて、由理柵を拠点として次第に植民が進み、現在の由利郡内に八郷の集落ができたことを示している。これは由理柵が史上に現われてから約160年後のことであった。

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