幕末の戦乱 庄内藩鳥海越

新徴組鳥海の頂上を越ゆ

 鳥海越えの軍議は、兵糧・弾薬の運搬が至難であることから、容易に決しなかったが、数日の熟議の末決行ときまった。兵糧は餅にすること、弾薬は各自腰のまわりにつけることとし、なお郷夫の人数も極力おさえて、兵指揮は今野順次郎がとることになった。鳥海越えの発議者は、この今野順次郎だったとしるされている。
 七月二十七日、新徴組は一番白井隊・二番林隊・三番赤沢隊の順で編成され、今野農兵隊がその嚮導をつとめることになった。農兵隊日記に「木立の中の難渋もようやく過ぎ、八丁坂にさしかかり、それより河原宿へ参り侯所雪道と相成り、アザミ坂登るころは、生涯一度の難渋と皆皆覚え中し侯。山頂へ登りつめ侯所、山上の荒風きりさめ笠も取らるるばかりにて、また霧雨ながらひど降りにてさし物も濡れはて、ぞやぞやと御堂目がけて急ぎけり。
 十一面観音にて一息つき、それより行者岳へかかり侯所、西風はげしく命もとられんばかりにて、かろうじてお堂に到着いたし侯。御堂手ぜまにて長床とても居所これなく、それに雨降り侯えば総勢の難渋いわんかたなく、とても居所なき上は鳥海打ち越し、祓川と申す所へ小屋あり侯間、そこまで参るべしと評定いたし侯」とある。
 このような難儀をしながら、農兵と郷夫は夕暮れの風雨をついて、険岩のそば立つ七高山を下り始めた。御堂に宿陣した新徴組三隊は、暁七つ時(四時)発足した。七高山上から庄内を望見しながら、山上の神に今度の戦勝を祈願Lたとある。祓川から林を下って木境にきた時の記事に「欝蒼たる木立を過ぐるあたりに、一宇の籠堂ありて、番兵少少居たりしが味方の斥侯これを打ち払えり。この番兵逃げ帰りて敵の本陣に報知するならん。か
れらにおくれず繰り込まんとて、かけ足にて進行す。も早や矢島へ近づきたるならん。八坂と呼ぶ坂下にて、道二筋に分かれたれば、爺にたずねるに、右は本道にて左は間道たりと答えたり」としるされている。
 そこで白井隊は八坂本道を進み、林隊は間道(樋上)へ入り、赤沢隊は白井のあとから本道を下った。籠堂とあるのは木境神杜のことで、ここには矢島・秋田から出した番兵が居たのであるが、不意をおそわれてあわてふためき、急ぎ山を下って陣屋へ報告したのが未の刻、二時ころであったというが、正午ころとも伝えられている。
 前夜庄内兵が用いた松明のあかりを、城下の人人が鳥海山の噴火と見ちがえたという語り伝えは、とりもなおさず、よもや鳥海山頂越えの奇襲などはあるまいと、たかをくくっていた証左であろうと思われる。
 

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