勤王一途を貫いた矢島藩

 
 慶応3年10月(1867)将軍徳川慶喜大政奉還の旨を奏上し、王政復古の大号令が発されたが、慶喜討薩の上奉文をたずさえて上京しようとしたことから、鳥羽伏見の戦いとなった。敗れた幕軍は江戸に退き、慶喜は恭順の意を表したが、ついに彰義隊北越の戦いとなり、会津、庄内藩もまた不穏の形勢をしめした。朝廷は、奥羽鎮撫使を任じ、左大臣九条道孝を総督に、三位沢為量を副総督に任じて、奥州に向かわせた。
 当時の矢島藩主は13代親敬であった。「親敬は、年こそ若けれ、年は戊辰において19歳に過ぎなかったが、重厚の風のある立派な人格者であった。すこぶる真面目な人であって、善いことは、何でも率先してこれに当り、これをやりとげるという気迫の人であって、まじめに身を王事に献げたのである。藩主ということを除いても、当時藩中第一等の人物であった。(矢島史談)とある如くに、若年ながらも早くから天下の形勢を察知して、終始一貫して大道をあやまらなかった。そのかげには、藩医小野元佳の存在を忘れてはならない。彼は藩医として、常に藩主に身辺に接し、機あるごとに経史を講じ、時には泣いて語り論し、そして天下の形勢と、藩の進むべき道を年若い藩主に教え知らせたいといわれている。慶応4年1月(1868)朝廷は、慶喜追討の大命を下し、各藩に対してそれぞれの国力に応じて兵をひきいて上京すべきことを命じた。この命は、矢島藩にまでは及ばなかった。親敬は深く勤王の意志を伝えさせようとしたが果たさず、その後、慶応4年2月23日、小助川太右衛門、松原彦一郎を京都につかわして天機をうかがい、勤王に奉仕したき旨の願書を奉った。
戊辰戦役の時の藩主生駒親敬
3月8日朝廷よりは、願書お聞きとどけのご沙汰があった。3月18日親敬諸臣を集めて、今後一藩こぞって王事に尽くす意をしめした。ここにいままで紛糾を続けていた藩論も完全に統一し、勤王一途に進むことになった。
 親敬は、直ちに松原彦一郎を仙台の総督府につかわして命をこわしめた。4月2日、庄内征討の命をうけ、同4日菊章の御旗と軍令状が下府された。
 京都の軍防局に対する矢島藩の兵備の報告書によれば、全軍指揮1人、隊長11人、司令8人、伍長12人、銃隊160人、銃手60人、小銃はゲーベル160挺、榴弾砲3門、新式野砲3門、同山砲3門、旧式山砲3門、攻城砲1門、合計13門、右撃手号令士とも60人、散歩農兵80人、鼓手9人、兵糧方8人、総員354名となっている。その外に近侍、少壮の者をもって一隊を組織して之を遊撃隊と称していた。

矢島藩が総督府より受領した御旗

 4月19日、秋田藩梅津小太郎ひきいる秋田藩兵の先導として、矢島藩高柳半十郎、佐藤国助は、銃隊3小隊大砲2門をもって百宅口から藩境鍋倉峠を越えて庄内領の貝沢、升田の両村を攻めた。この道は、鳥海山東麓の密林地帯、人跡まれな嶮路であり、兵備の不完全な秋田藩兵は、進撃思うにまかせず、それ待つ間にむなしく戦機を逸してしまった。その後、命によって矢島藩兵は百宅へ引き上げたが、その時百宅には秋田藩兵は一人も見えなかった。又、三崎口へ向かった秋田、本荘藩兵も敵の強い襲撃をうけて後退せざるをえなかった。その後、仙台、米沢藩の主唱によって白石同盟が結成された。これは、5月3日に調印されたが、奥羽諸藩の解兵を誓ったものである。この時、矢島藩よりは、椎川嘉藤太を重臣と称してつかわしている。矢島においても、この約によって一時解兵を行った。
 5月9日、最上の新荘より秋田領内へ入った副総督は、藩校明徳館において秋田藩主佐竹義堯を謁見した。秋田藩は、沢副総督等に一旦秋田を退いて大館に滞留して四囲の形勢を見られるようにとすすめた。その後沢副総督は、大館より津軽へ向けて出発しようとしたが、6月8日本荘藩士守屋杢右衛門が本荘藩の意志を伝え、しばらくの間秋田領内に留まるようにと懇願した。7月4日の夕刻、仙台藩の使者志茂又右衛門等を秋田藩士小野崎鉄蔵等の12人が、秋田の宿舎を急襲し、ことごとく殺害してしまった。混迷を続けていた秋田藩の論が、ここにはじめて勤王に統一されるにいたった。7月1日、九条総督、醍醐参謀をしたがえて秋田に入り、沢副総督も能代より秋田に入った。
 先に仙台、庄内藩の使者が矢島に来て、幕軍へ味方をすすめた。矢島藩は小助川直記を秋田につかわして、その動静を報告させ、又、庄内進軍の時機をうかがわせた。秋田藩は、これを誤解して、かえって総督府に讒言して、矢島藩に御旗の返上を命じさせた。命に接した親敬は、松原彦一郎をして銃隊一分隊をひきい御旗を護衛させ、7月4日の夜、矢島を出発して秋田へ向かわせた。6日夕闇せまる頃、秋田に到着して宿舎に入った。
 その夜総督府と秋田藩兵が、にわかに宿舎に侵入し、抜刀して正使小助川直記、副使松原彦一郎に疑問三か条を掲げて、その解答をせまった。松原は少しも臆する所なく、ただちに明快な解答をあたえ、又、求められるままに答弁書を書いて渡した。殺意だった彼等も疑いが解け、後には酒食の間に談笑して去ったという。
 翌7日小助川、松原の二人は、総督府に参上して御旗を返上したが、昨夜の解答によって矢島藩に対する誤解も解け、再び御旗を下賜され、又、庄内征討の先導として速刻出兵するようとの命をうけた。7月8日、百宅口とこしき峠口から進撃の命に接したが、こしき峠口は秋田藩兵があたり、百宅口は秋田と矢島の兵があたることとなった。矢島は、一小隊の兵が先導となって庄内へ攻め入ることになった。はじめ矢島には筑前の兵が護っていたが、秋田藩古内左惣治の兵百余人が来って、守備部署の変更を要求し、筑前兵と祓川口におった矢島の半小隊の兵全部とを観音森方面へと転出させ、矢島は、もっぱら秋田の兵が護ることとした。
 秋田領内侵入への戦線の膠着状態を憂えた庄内藩主は、家臣を集めて協議の結果、全戦線一斉に行動を起こし、そのすきに矢島の本陣を奇襲して、味方を有利に導こうとした。そこで別に第四番隊を編成し、約750名、正兵隊となり、百宅口めざして進撃を開始した。この方面の秋田、矢島の兵は、監軍上田雄一の指揮によって百宅口に土塁を築きこれによったが、庄内兵の急襲にあって後退し、第二の塁によったがこれも防ぎきれず、百宅口において防いだが、ついに後退せざるをえなくなった。
 庄内藩は別に第四番隊中に新徴組を編成し奇兵隊となし、正隊が矢島に攻め入っている機に鳥海山路を下って側面より矢島を攻撃する計画をたてた。7月27日、林茂助を隊長とする勇猛決死の兵は、ひそかに鳥海山に露営したが、28日未明「山頂より矢島方面を眺むるに、空は快晴なれども、麓は霧に閉じ込められて目指す矢島は見えず。」(戊辰庄内戦争録)の天候であった。これ幸いと一気に山を下り、祓川において小憩し昼食をとる。「その時、夕食の準備なしやと問うにその分は運送せずという。食なくして敵地に入るは、決死の覚悟の行動と一同顔を見合わせ、心中固く期するところがあった。」(戊辰庄内戦争録)という。その意気正に壮といわなければならない。
 その後、隊伍をととのえて進撃し、途中木境口に居った秋田の番兵を襲ってこれを敗走させ、ただちに矢島の陣屋を襲った。時に慶応4年7月28日の午後2時すぎ。この時矢島に居った秋田藩兵中の精兵は、百宅口の危急を救うため百宅に向かって進撃し、ただ小野寺嵯峨の刀槍隊約200名だけが残っていたが、武装不完備のため戦意なく、正門において発砲したものの、ただちに退去してしまった。この時、矢島の本陣には30〜40人の少数の者が居るだけであったが、敵来ると知って皆奮起した。小隊司令佐藤賢吉は、一小隊と山砲一門をもって機左坂に敵をむかえうったが戦利なく間もなく陣屋に退いた。庄内兵は、寿慶寺、福王寺とつぎつぎに火をかけ、愛染長根に散兵し、山上より陣屋めがけて発砲してきた。その弾丸は、親敬の居所近くに雨の如くに降り来ったという。
 総指揮松原彦一郎は、みずから指揮をとり、又、大手前に大砲をすえ、六貫匁の榴弾の砲撃を愛染長根の敵の散兵線上にうちこみ、その心胆を奪った。その他の者は皆必死の覚悟をもって弾雨の中を敵陣に切り込んだ。庄内の一隊は、更に火を龍源寺に放ち、又、別働隊は針ヶ岡をへて井岡台に出て所々に放火しながら本陣に迫った。砲撃を続けていた松原彦一郎は、左足に銃弾を受けてたおれた。衆を頼んだ敵の勢いはますます強く、いかんともしがたいと知った親敬は、監軍上田雄一郎に従っていったん全員の引き上げを命じた。

兵火にやける矢島の城下

一同大砲に釘をうち陣屋に火を放って退却を開始した。庄内兵は城内の各所に放火した。この日の夕焼けは陣屋と町屋の焼ける火に一段と赤かった。武家、町人ともに、戦火を背にしてそれぞれ四散し退避した。その時の焼失家屋は「藩士の家屋全部98戸、内民部坂不動滝の上にある桜庭佐左衛門の1戸残る。是は、侵入軍の本部に当て、後、鎮撫方役所となる。町家221軒(焼け残り171軒)(戊辰矢島戦記)とある。又、矢島藩の戦死者は、遊撃佐藤信次(20歳)砲手高柳丈右衛門(34歳)銃砲手佐藤音作(20歳)嚮導金子広治(18歳)の4人である。
 矢島を占領した庄内藩は、支藩松山城主酒井忠良に命じてこの地を治めさせた。観音森の天嶮を突破した庄内兵は、海岸づたいに進撃し来ったので、六郷氏もついに鶴舞城を焼いて後退した。百宅へ侵入した庄内兵も秋田をめざして進撃し、秋田の城下近くまでせまった。
 その後、親敬の率いる矢島藩兵は、いったん玉米郷に退き、その後、日照坂の天嶮によって戦おうとしたが、戦不利につき思いとどまり、兵を集結して後仙北方面に転戦したがその節制ある戦法と砲隊の威力とは味方のものひとしく賞賛するところであった。特に角間川の戦は最も激烈をきわめたが、8月13日この戦において、わが方の小隊司令片倉良吉(28歳)は奮戦の後戦死した。9月11日戸島台の戦には菅原勇作(27歳)が戦死した。矢島より退いた藩士の家族も多くは藩主にしたがって玉米郷に避難し、後、自領雄勝郡大沢をへて雄物川をわたり、土崎港に着いた。逃げ遅れた者は、近在の農家に一夜をあかし、後漸次玉米郷に集まり、その後土崎に入ろうとしたが、角間川の戦に通路を遮断されて果たさず、後ついに矢島に引き返してしまった。
 その後、若松城重囲におちいり、米沢、仙台藩相次いで降伏した。後方の敗退と薩、長佐賀、小倉等の援兵来るを知った庄内軍は、戦線に混乱を生じ、9月16日より退却を開始した。9月24日、総督府の命により、秋田城下にあった藩主領民ともに矢島に帰った。
 その後、秋田、矢島藩兵は、百宅口より升田を攻めるように命があって、百宅を護っていたが、しばらくして後帰陣した10月6日庄内藩の謝罪降伏をうけて戦は終った。
 生駒親敬は、この戦功によって賞典録千石、永世ご下賜の恩命をえた。なお行政官よりつぎの感状をあたえられた。
小身を以て賊地に介在して、早くより方向を決し、大儀を唱え、数度の転戦死力を極め加之官糧を弁じ、武門の職掌を尽し候段叡感被為在仍為其賞千石下賜候事
 矢島藩は奥羽の辺地に介在し、一万石にも満たない小藩であった。しかしながら早くより勤王の大儀をとなえ、特に年若い藩主の終始一貫した勤王の精神は実に至誠至純みごとなるものがあった。藩士また藩主の意を体し、微動だになすことなく勤王一途を貫いたことはじつに偉なるものといわなければならない。しかし、小藩にして四囲大藩の中にあったがために、矢島藩の誠意は、総督府に正しく通ずることなく、しかも、秋田藩よりは、終始さい疑の目をもって見られ、その行動も思うにまかせず、矢島藩の真価を十分に発揮できなかったことは、まことに遺憾なことであった。

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