斎藤佳三

日本初の商業デザイナー

  

 美術家、音楽家として名をはせた斎藤佳三(かぞう・本名佳蔵)は、明治20年(1887)に矢島町で生まれた。
 秋田市第一中学校を卒業後、音楽家を志して上京し、東京音楽学校師範科に入学、明治42年(1909)23歳のとき音楽学校を中退し東京美術学校に入学する。
 音楽学校時代は、詩人川路柳虹、劇作家小山内薫、音楽家山田耕筰、演出家土方与志、詩人北原白秋、吉井勇、三木露風、西条八十などと親交を深める。
 25歳のとき、小歌曲「樹立」などを発表し、美術学校卒業後、山田耕筰とともに渡欧しベルリン王立工芸院で構成美学を専攻し、帰国後は「リズム模様」という創作デザインなど新作を次々に発表し、日本ではじめて「商業デザイン」「工業意匠」の言葉を使い、その真価を発揮し活躍する。
 東京美術学校の講師として15年間、意匠学、服装学講座を担当したのち、松竹キネマ美術部長に就任する。
 昭和5年中華民国に招かれ、国立美術院図案化主任教授として3年間つとめ、昭和9年に東京図案専門学院院長に就任し、厚生省、商工省の依頼で国民服を考案する。

  

 昭和30年東京の自宅で亡くなる。(享年69歳)
 矢島町では斎藤佳三を偲んで音楽顕彰会を開催しており、「ふるさと」の歌曲碑が矢島小学校の校庭に建立された。
                                     斎藤佳三音楽顕彰碑

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