生駒藩と新田開発

 
藩政と新田開発
 徳川幕府は慶長8年(1603)に創業の緒についたが、その40数年後の慶安2年(1649)には、前に紹介した慶安のお触書という、半ば強制的な勧農の諭告を発している。たとえば、食物の倹約については「ふだんはなるたけ粗飯を食うべし」と命令的であるが、その次にただし書として「田畑を起し、田植・稲刈また骨をおる時分は、ふだんより少し食物を良くし、たくさん食わせて使い申すべし」と、心づかいのほどをのぞかせている。
 雑穀を主食とし、菜や大根を糧にせよということばの裏には、年頁の未納を何よりも恐れている、いわぱ警告に過ぎないのであるが、要は増大する人口の伸び率に対して、米の生産が伴わない、いわば人口と主食としての米の量が、まだまだアンバランスな状態にあったことを意味するものと考えられる。
 このほか、耕種法についても、種子の選択から農具の手入れ、さらには肥料の増産に至るまで、徴に入り細にわたって言及しているが、もち論これらの事は勧農の基本的心得ではあるにしても、今一つ重要なことは「耕地の寡少」という現実問題があった。そこで、当然採られなければならない勧農の道は二つあった。一つは消極面としての「精農者の褒賞」であり、他の一つは、積極面としての「耕地の開発増殖」ということである。
 本来、土地と農民を表裏一体のものとして、その生産性を維持し、かつ増大して行こうというのが、封建体制の骨格なのであるから、そのまた中核である米の生産拡大ということは、幕府にとっても各藩にとっても、一貫した農業政策として力をそれに傾注してきたわけである。幕府は広大な直轄領に代官を配置してこの事に当たれば、諸藩においては、これまた代官を督励して拝領高プラスアルファの励行に腐心するのであった。
 江戸時代における新田開発は、八代将軍吉宗のいわゆる「享保の治」時代に大いに奨励促進され、武蔵野新旧の開発、手賀沼(下総開墾・両総地方東金付近)の五万石開墾など、さすがに大開墾事業がつぎつぎに成果をあげた。その後、天明以来しばしぱ計画された印幡沼の干拓は、遂に大成するまでに至らなかったが、遂に昭和年代におよんで、国営事業として一部達成されている。寛政以降に着手した蝦夷地開拓の如きは、開発の触手を新天地に求めたものとして注目されよう。
 新田の開発は、まずその場所の適否を検出し、もし新開を願い出る者があれぼ、古田畑または隣村のために妨げのありや否やを調べた上で許可をする。これを「見立新田」といい、もし代官の見立てである時は、代官見立新田といって、その開地の物成りの内十分の一を終身給された。また、町人の計画であれぱ「町人請負新田」、村一同の願い出であれぼ「村受」と呼んだ。見立新田十分一の法は享保8年(1723)に設けられた仕法で諸大名もこれにならって大いに開墾に力を入れた。
 新田を開いた場合は、2・3年または4・5年の「鍬下年期」を与える制であった。矢島藩の鍬下年期は3ケ年で、その期問は年貢を免除される制度であった。一方この開発が過度になり、水源地方の林野をおかして河水のはんらんを招いたり、中には本田畑を荒して新田熱にうかされる者も出たとその弊害を記録している。このような新田開発の時流とはうらはらに、重い農民負担に堪え兼ねて諾方に流亡し、耕地の荒蕪に帰するものも少なくはなかった。それでも一般的に言えぱ、耕作反別は著しく増加していた。豊臣秀吉のころに約150万町歩と推定されたものが、享保のころにはほぽ300万町歩と倍加している。これをもってしても、徳川幕府前半期における耕地開発が、いかに盛んに進められていたかがうかがわれると思う。
  
矢島領内の新田開発
ア.前郷新所村
 「前郷の内新所村は、元和9年(1623)から寛永12年(1635)まで12年の間、打越左近殿御治世の内の出高新村にござ侯。そのほか、左近殿代には所々新田でき申」侯由」と書かれている。打越左近光隆は、元和9年の所替えによって常州新宮から矢島3000石に移されたが、寛永12年にその嫡子光俊は、継嗣の子がなくして死亡したので絶家とたった。その12年間の開墾で新所という新田村が生まれ出たのである。
イ.上笹子の天神村
 この天神村は、「寛永17年(1640)庚辰の当御代に相成り、此方小助川太兵工御忠進の出高新村にござ侯。延宝5年(1677)御領分中総検地の節、御竿請げ申さず侯こと相知れ、同7年(1679)御竿請け中し侯。控えこれあり候。その節高検地・御役人左の通り」としるされている。延宝5年といえぼ、例の矢島領農民一揆の端緒となった「矢島35000石総検地」が強行された年で、その時天神村は検地を拒否したとある。ついで延宝7年に「15000石総検地」となった時には、拒否することができないで検地を請け入れたが、この延宝7年の検地帳が前記したように、上新庄村・木在村にのこされており、なお百宅村のものも現存している。

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