生駒藩江戸屋敷

 
拝領居屋敷
 藩祖生駒親正が徳川家康から拝領した江戸の居屋敷は、上屋敷が竜の口、中屋敷は下谷御徒町にあったが、寛永十七年家改易の際「居屋敷は差し上ぐべく、中屋敷は下し置かれ侯」と申し渡しがあったので、この中屋敷を新たに上屋敷として居住することになった。ここが生駒家の江戸藩邸なのである。
 2代高清の時、弟俊明を伊勢居地に分知したので、その江戸屋敷として、御徒町5200坪の内1600坪を分かち与えたのである。生駒家では伊勢屠地家を「お隣様」と呼びなし、本家に事ある時は気軽に裏門からの出入りが許されていた。日比谷図書館の史料室で、寛政年代の江戸絵図面を見たことがあるが、今は国会図書館に移管されているそうである。
 弘化2年(1845)に、公儀へ差し出した「屋敷お改め坪数」という届け書によれば、上屋敷の残り3600坪の内、幕府からの所望で800坪を譲り、その代替地として「本所源森橋際」に、同じ坪数の土地を与えられたと書いている。この源森橋際の屋敷は以来下屋敷として使用していた。このような経過をたどって、御徒町の藩邸の広さは2800坪となったわけである。この譲り渡しは文政5年(1822)以前のことである。
  
水野出羽守と屋敷替
 文政5年11月、土岐村玄立という町医者が藩邸をおとずれて、本所の下屋敷を老中水野出羽守が所望されているから、譲ってくれるようにと持ちかけてきた。本所源森橋には出羽守が懇意の間がらである細川長門守の屋敷が隣接しているので、同時にそれをも譲りうけたいということである。その替地としては「目白台を予定しているということだったので、それでは下谷の藩邸から余りに遠過ぎるので、できたら本所あたりにしてもらいたい、と希望を申し伝えてやった。幸い、西丸小納戸役の菅沼左京亮という人が、屋敷替を
望んでいるとの話が聞こえてきたので、この折衝は殊のほか順調に取り運び、いよいよ取りきめの段階にはいった。
  11月29日 本所林町菅沼大蔵様と、お屋敷替の内談ならせられ侯につき、見分として加川新左工門まかり越し、世話人も同道いたし侯。坪数906坪にて、御殿・長屋はそのまま残し置き侯て、180両にて申し受けたき旨内談取りきめ申し侯。
   
   
  12月9日 菅沼様お屋敷見分にまかり越し、間棹持参いたし検地など打たれ侯。公辺向き906坪に侯えども、30坪余計にこれあり侯。長屋の儀無料にて譲りたき旨内談ござ侯えども、大破につき相ことわり、先方にて引き払い侯ようかけ合い侯事。
   
   
12月11日 一、金235両
 右は、このたび本所中之郷(源森橋)下屋敷、御相対替につき、引料金470両の内半金お渡しなられ、確かに受け取り申し侯。よって件の如し。
文政5年12月

生駒大内蔵内  加川新左工門

                             今井 庸助

水野出羽守様御内  石川治兵エ殿
             中山三左エ門殿
12月14日 菅沼大蔵様衆へ、お屋敷引料金の内金90両相渡し申し候。
12月19日 一、御用番(老中)阿部備中守様へ、御書付をもって仰せ出され侯。
細川長門守拝領下屋敷地所中、4659坪の内2300坪  水野出羽守へ
生駒大内蔵拝領下屋敷本所中之郷、800坪         水野出羽守へ
水野出羽守拝領下屋敷目白関口、1875坪の内1375坪 細川長門守へ
同所の内、500坪                         菅沼大蔵へ
菅沼大蔵拝領屋敷本所林町三丁目横町3940坪の内906坪生駒大内蔵へ
12月22日 今日、大川端(中の郷源森橋際)下屋敷へ、水野出羽守様お引き移りにつき、詰人とLて御留守居加川新左エ門・御目付高柳惣左エ門・御下屋敷守代人須田友十郎・御作事今野喜十郎・御祐筆代人足軽物書小番和助、右五人四つ時(午前十時)出宅いたし侯。
一、 本所林町受け取りにまかり越す。堀又兵工ほか3人たり。御隣家の衆一人づつ立ち合い申し侯。
一、 水野出羽守様より、御屋敷引き料残り金235両受け取り侯。新左工門・庸助証文差し上げ中し侯。
一、 菅沼様へ、お引き料半金90両つかわされ侯。
12月晦日 一、金56両
  右は、このたび御下屋敷相対替、初発よりお世話申され侯につき、御挨拶として下され侯。右は細川様へ相たずね侯所、一割のつもりにてつかわされ侯よし。
 このようにして、生駒家の下屋敷は初め幕府との交換によって、本所中之郷の源森橋際に得たのであったが、後文政5年に至って、時の権勢水野出羽守忠成との相対替で、菅沼大蔵拝領の屋敷を得て本所林町に移ることになった。中の郷800坪が林町で906坪(実測936坪)と広くなり、引き料においては、470両を得たのに対し、支払いは180両に周旋料の56両を加えた236両で、結局234両の収入超過となっている。それにしても、中の郷と林町とでは、同じ本所地内にありながら、地価は坪単価でおよそ3対1という格差を示している。
  
お屋敷の類焼
明暦の振袖火事
 生駒家騒動のところで、生駒帯刀が差L出Lた訴状のなかに、お屋敷類焼のことをこう書いている。「寛永10年(1633)江戸大火にて、諸大名・御旗本並びに神杜・仏閣・商家までおびただしく類焼し、高松お屋敷にても上・中ともにことごとく焦土となりぬ。うんぬん」と。この時類焼にあったのは上屋敷(当時竜の口)と中屋敷(当時御徒町)であったが、この年は、高俊元服の年でもあった。
 その後、江戸の大火として最も有名な明暦の火事、一名振袖火事とLて伝えられるこの大火は、明暦3年(1657)本郷の本妙寺から出火し、三日三晩燃え続けて江戸市中の過半を焼き尽くした。その中で大名屋敷の焼失が800と見えているところから、たとえ上・中・下の屋敷があったにしても、御徒町の位置からして、おそらくは生駒家の上屋敷も焼け尽くされたことにちがない。死者十万人余りを出し、両国に回向院が創建されて死者の霊を弔ったことは、世人周知のところであるが、矢島藩の家士・足軽・中間の中に、そこに葬られた人のありやなしや、今記録に徴すべき何ものもない。
  
明和9年(1772)目黒行人坂の火事
 「2月29日、江戸大火、風は富士南にて目黒行人坂より出火、千住まで焼く。江戸お屋敷御類焼にて御下星敷ばかり残る。これによって、桜庭弥兵エ様江戸よりお下り遊ばされ侯。早速大工棟梁弥十郎はじめ5人登る。この御類焼につき、町方・在方ヘ御用仰せつげられ侯。
   館町分、銭21貫300文、右6月中上納の事。」
 これは、館町丁内諸事覚書のなかに出ている記事である。目黒の火元から南風にあおられて、北方千住までめらめら焼け広がったこの火事も、かず知れない江戸火事のなかで有名な大火である。このような災禍があるたびに、国元の大工が呼び寄せられたり、領分一円に御用金・御用米の割当を中しつけられる。このたび館町へ割当てられた、21貫300文という銭は、標準両替で4両位の金高であったろうが、決してかりそめの負担ではなかったと思われる。殊に明和年間は、不作が断続的に見舞わっていたからである。「火事と喧嘩は江戸の花」などと、対岸の火災視することができないばかりか、直接在所の領民にはねかえっていたことを思い起こしたい。
 木在村三浦家の万覚付帳の中に「明和9年辰、江戸大火にておひただしく焼失いたし侯、しかれど、矢島お屋敷にては人損じ申さず、他家にては人損じおびただしくこれある由」と書きとめてあり、類焼はしたけれども焼死人の出なかったことを、何より喜んでいる向きがうかがわれる。
 この明和9年という年は、大火に続き地震や噴火などの自然災害まで発生したので、年号の明和9年をもじり「迷惑年」などという人も出たらしく、幕府では人心一新の意味から改元して「安永」と名づけたといわれる。
  
寛政3年(1791)の類焼と、町火消の来援

「一、

 12月晦日未刻(午後2時)過ぎ、下谷数寄屋町中ほどの桶屋より出火これあり、北西風強く、上野広小路西側より御成小路の魚店・長者町・御徒町残らず焼き払い、それより西表御門通り、西御長屋下三味線堀まで焼き払い中し侯。右御長屋のお屋根に所所飛火これあり、ようやく消しとめ中し侯。御留守居屋敷屋根へ飛火にて、余ほど焼け申し侯。御手勢にて防ぎ兼ね、町火消い組・に組・ち組・よ組右四組相頼み防ぎ止め申し侯。御作事方の御材木小屋も飛火にて焼け申し侯。
 右火勢強く、御部屋奥長局に吹きかけ、ようやく消し止め申し侯。御屋敷内所所飛火これあり侯間、御二方・お姫様、御下屋敷へお立ち退き遊ぼされ侯。お供14人、女中残らずお供仕り候。本多帯刀様火事御見舞においで遊ばされ、飛火の場所へお指図なられ侯。

一、

 亥の下刻(午後11時)鎮火いたし、殿様同刻お帰り遊ばされ、子の刻(同12時)奥様・お姫様お帰り遊ばされ侯。喜連川様より信玄弁当一荷下され侯。」
 この火事は、9代親章代のできごとで、文中の本多帯刀というのは、親章の父親睦の生家駿河田中の本多家のことで、また、喜連川様とあるのは親章の妻の生家である。
 町火消に対する謝礼の使者は、翌寛政4年正月15日に各200疋を包んで、組頭のもとへ伺い出ている。
 各組頭名は次の通りであった。
   い組 本銀町の名主、庄次郎代理良助    に組 富沢町名主代源六
   は組 村松町(名前小記)             よ組 神田鍛治町の名主代富八
 
文化3年(1806)の類焼

一、

 芝高輸泉岳寺門前の車町より出火いたし、富士南風はげしく大火におよび、御屋敷類焼となる。
 ただこれだけの記事で詳細はわからない。先の行人坂火事と同じように、火元は江戸府内の南部であること。それに富士南風がはげしく吹き荒れたので、北カに密集する目ぬきの市街部へ焼け広がったのである。
 
その他の火事記録
 ア、明和9年12月25日(1772)

一、

浅草阿部川町より出火これあり侯につき「三丁火消」の人数お差し出しなられ候。佐藤兵助・御徒目付高山利兵エそのほかまかり出る

注)

三丁火消というのは、近接三ヶ町内を自衛する火消の組繊で、火事に際しての割り当ての人数を、義務的に出動させる仕組であった。

 イ、寛政9年11月22目(1797)

一、

昼四つ時(午前十時)神田佐久間町藤堂和泉守様表御門通り、金屋長右エ門裏より出火のところ、折ふし北西風強く大火に相成り侯につき、三丁人数差し出し侯。騎馬にて下村武左エ門、御徒目付佐藤平七、ほか御足軽・御中間まかり出侯。

一、

右の出火、新橋通り・川岸通り・酒井左エ門尉様まで残らず焼失なり。それより飛火にて薬研堀村越様脇より、大川端酒井修理大夫様お屋敷まで焼け侯。大橋焼け落ち、向う通り6軒堀木場砂村まで焼き払い、およそ二里半までにて夜五つ時(午後8時)過ぎ鎮火いたし侯。

一、

大御目付より御書付御回状左の通り。
「一、この節火事しげく候につき、先年三上因幡守の組江戸中昼夜相回り、少しにても怪しき者見受け侯わば、たとへ武家屋敷へはいり侯とも、つけ回り侯て、召し捕まえ侯よう申し渡し置き侯問、その意を得向向へ相達し申すべく侯。」

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