三宅雪嶺

 

 徳富蘇峰とならんで明治のジャーナリズムを二分した三宅雪嶺ですが、蘇峰が現代に忘れられた人なら雪嶺は文学の地層に埋もれてしまった人とでもいうべきでしょうか。
 
 蘇峰の『近世日本国民史』なら今でも古本屋の片隅に置いてありますし、漢字にはふりがなが振ってあって今でも読めないということがありません。一方、雪嶺にも六十七歳(大正十五年)から二十年間にわたって書き続けた大巻『同時代史』があるのですが、しかし、これなど図書館でも閉架書庫でなければお目にはかかれません。
  
 雪嶺が読まれないのにはいくつかの理由があります。まずはその独特の視点。雪嶺は、あとでも触れるように、東京大学哲学科の最初の学生でした。このころはまだ研究スタイルというものが確立していなかった時期で、ために雪嶺の思考方法はきわめてユニークなものでした。『真善美日本人』『宇宙』『我観小景』など主題を見ただけでも、私たちのもっている「哲学」に対する一般的イメージからはかけ離れていることがわかるでしょう。
 
 ちなみに、「哲学」というものについてイメージが作り上げられるのは、明治二十年代になってドイツの観念論哲学を学んできた井上哲次郎が東大教授になってからのこと。以後東大の哲学はドイツ流となり、哲学といえば、ヘーゲルだ、カントだ、ショーペンハウエルだなどと、読んだことはないが名前だけは知っているという風潮とはなりました。余計ですが、矢島史研究のバイブルとなっている『矢島史談』の著者土田誠一は東大で井上について学んだ人です。土田の留学先のひとつもまたドイツでした。
 
 話をもとにもどして、ユニークな視点のうえに、雪嶺は文章を書くのが苦手でした。
一度筆を執ればあとはとどまるところを知らず、一気呵成に文章ができあがるというタイプではなく、呻吟しつつなんども推敲するというタイプでした。ために、その遅筆は避けがたく、代筆をもって文章を作るということをやりました。湖南も呂泣もこの代筆役に抜擢されたのです。
 
 呂泣についていえば、雪嶺の『我観小景』で、湖南とともに代筆を任されています。
『我観小景』の「凡例」の最後に、次のようにあります。
 
 本書は、之を内藤虎次郎畑山芳三両氏に口述して、托して文字を成せる所なり。後稍々点鼠を加ふると雖も、文字の責は、素より二氏に在り
  
 その『我観小景』ですが、雪嶺は巻末において天文学、物理学、化学、社会学、倫理学のなんたるかに順次触れたあと、哲学をこう定義しているのであります。
 
 所有萬象、其の皆生あり、心霊ありを知るや、仰で天の蒼々たる、日月星辰の此に麗くを観、木
 
 石非情の物を操持転動す、冷然として曾て情之と相感ずることあらずとするも、其の實は徒らに此の如き而巳にあらずして、適さに非常至霊の活気を暢発し、大生理を経営する、大動物の作用を見、而して日々に其の霊活の動作と相接するとする所以を明覈する、之を名けて哲学と謂ふ。
 
 はい、お疲れさまでした。もちろん、意味などわからなくて結構。近代文学を説いては向かうところ敵なしの柳田泉博士でさえ『我観小景』には「ちっとむずかしい」と弱音を吐いておるのですから、凡庸凡百の私どもがわからなくても全然問題ない。
 
 内容はわからなくても、これで雪嶺の文がどうして読まれないのかということは納得していただけたでしょう。そして見逃すことのできないのは、こうした文体の一端を呂泣が担いでいたということです。『我観小景』が書かれたのは明治二十五年ですが、この時代は文体改良の時代でした。実は、雪嶺も湖南もこうした文体から抜け出していくのですが、明治三十一年で亡くなる呂泣にはその時間がなかった。呂泣の文体についてはあとで論じます。
 
 雪嶺こと三宅雄二郎は万延元年(1860)金沢に生まれました。父は儒医(医者にして儒学を修めた人)でした。学制発布ののち、維新政府は東京、愛知、広島、新潟、宮城、大阪、長崎に七外国語学校(ほどなく英語学校と改称)を開設しました。ここで英語をしっかり訓練して東京大学に送り込むためです。これらの英語学校は、その後、なん度かの学制改革によって改変され、明治十年の二月に東京大学予備門に統合されました。雪嶺は愛知英語学校に入学しましたが、こうした改変の波に押し上げられて東京大学まで運ばれてしまったとは自身の弁です。
 
 予備門の二年生のとき、すなわち明治十年西南戦争が始まると、雪嶺は新聞ばかり読んで落第しました。雪嶺と同じようにして愛知英語学校から東京大学予備門に入ったものに坪内逍遥がいます。逍遥は雪嶺と同期で予備門に入りましたが、雪嶺がここで滑ったため一年早く東京大学文学部に進学しました。しかし、試験でシェースクピアの解釈に失敗、逍遥もまた落第します。結局ふたりとも卒業は明治十六年になりました。
 
 逍遥は、一足早く東京大学を卒業して東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立に参画した同期生高田早苗(のち早稲田大学総長・大隈内閣の文部大臣)の引きで同校の教師になります。逍遥の手になる早大文学部はまだなく、逍遥は法科や政治科で憲法を教えていました。
 
 その逍遥が、東京大学の学生生活を戯作文学風に書いたのが『当世書生気質』でした。このなかに、桐山といって、ブ男、不潔、胎毒、やかん頭の学生が絵入りで登場しますが、これは雪嶺をモデルにして書いたものだそうです。とはいえ、雪嶺は巷間美人のうわさ高かった花圃(田辺蓮舟の娘)を娶ったのですから人生とはわからないもの。
 
 雪嶺の学んだ哲学科は彼が最初の学生でしかも彼ひとりだけでした。半ば必然的に大学に残り研究生となりましたが、明治十九年政府機構に大改革が行われると彼もまた研究職から文部省の編集局に移され、教科書の編集を命じられました。雪嶺はこれがいやで役人を辞めました。当時東京大学を出たものは月給五十円が相場でした。
『明教新誌』の湖南が十円前後、巡査なども十円でしたから、五十円は手放しがたい金額でしたろう。
 
 ただ、雪嶺には役人を辞めるにあたってべつの思惑もありました。それは薩長藩閥政府への反抗心といえるものです。先の大行政改革も元をただせば財政逼迫による人員整理であり、これによって離職を迫られたのは下級官吏であり、彼らの多くは旧幕時代の御家人もしくは非薩長系の人たちだったのです。
 
 月給五十円とはいえ、薩長閥政府の補完行政官吏では先が見えているというのが雪嶺の気持ちでした。雪嶺は生涯この反政府的気分をもち続けました。後年、京都帝国大学文学部長に推されたときもうんとはいいませんでした。それどころか、幸徳秋水が大逆事件で絞首刑に書される直前に本を書いて、雪嶺に序文を頼んだとき、彼はこれを引き受けています。しかし、秋水の本が日の目を見たのは太平洋戦争に日本が敗戦してのちのことになります。
 
 雪嶺の気分は彼ひとりの個別的なものではなく、旧佐幕藩出身者、あるいは東北人士に広く蔓延していたものでした。
 
この気分は明治十年代までは西洋思想に触発された民権運動とキリスト教思想となって非薩長政府人士に広まりました。しかし、十年代末になって、政府が外交問題を有利に進めるために積極的に欧化主義を取り入れると、次にはその欧化主義に反対して日本主義とでもいうべきものが沸き起こりました。今でいうところのナショナリズムですが、当時はこれを nationality を翻訳した「国粋保存主義」、あるいは単に「国粋主義」と呼んでいました。
 

 以上平成十四年十月三十日記 以下続く

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