4.英学修行 |
明治十年代にあって、世界を見晴るかす望遠鏡は英語でした。英語は学問をする上で欠かせない手段でした。ところが、秋田師範では英語を教えなかったために、ふたりは自分たちで英語を勉強しようと相談しました。 まず、最初に呂泣と湖南は師範の先生である川名という人から変則英語を習いました。これは発音を無視した通解英語で、「but はしかし、people は人びとで…」などとやっていくものです。秋田弁なら「ブットすかし、ヘヲヒル人びと…」などとやっていたところでしょうか。 ふたりはその後秋田中学の教師森可次(たぶん「もりよしつぐ」と読む)という人について勉強を続け、教科書程度の英語を読むところまでは行きました。森は東京大学を中退したという人で、大学では三宅雪嶺(みやけせつれい)の友だちでした。これは想像ですが、森は授業の合い間合い間に、呂泣や湖南に雪嶺のことを話して聞かせることがあったのではないでしょうか。三宅雪嶺は東京大学哲学科最初の卒業生であり、大学に残ったものの役人勤めが嫌になって退職し、その後は生涯在野を貫いた反骨精神の持ち主でした。そして、雪嶺こそは東京で呂泣と湖南が身を寄せた政教社を主宰する人だったのです。 |
明治十八年、呂泣は優秀な成績で秋田師範を卒業しました。首席であったという説もあり、三番であったという説もあることは先に紹介した通りです。当時師範を卒業したものは二年間教職につく定めでした。成績のよい者は各地の小学校から引く手あまたであり、成績上位者は比較的中央(秋田)の学校に就職しました。 呂泣は、そのまま師範学校に残りました。矢島学校にもどって先生になるという選択肢もあったはずですが、呂泣の描く夢のキャンバスはもう矢島ではなかったようです。一方、このころ呂泣には人生の最大関心事のひとつである恋愛―女性問題が持ち上がっていました。秋田師範の一級上で、呂泣の友人に竹内常助という人がいました。竹内は大曲の出身。この地方では知らぬ人とてない資産家の息子でした。夏休みに竹内家に遊びに行った呂泣は、ここで常助の姉チヨを知ります。多感な呂泣はたちまちチヨに魅せられました。夏の開放感も手伝ってか、ふたりは恋に落ちました。 |
呂泣の出現は、竹内家にとっても拒むことではありませんでした。チヨの父母は、常助から呂泣の師範での才気煥発振りを聞かせられていたことでしょうし、なによりも呂泣自身に人を惹きつけてやまないものがありました。チヨに赤ん坊が生まれたとき、竹内家の人々は呂泣の倫理を責めるよりも彼が身内になったことを喜んだようです。しかし、呂泣にはチヨと結婚して竹内家の分家となって大曲に留まる気など毛頭ありませんでした。秋田では師範学校の学科にはない英語を湖南とふたりで習っていた呂泣です。念頭にあったのは、いつかは東京に上って青雲の志を遂げようとの思いでした。 |
秋田師範の訓導をたった三ヶ月で辞めると、呂泣は上京しました。東京に出てきてだれを頼ったものか、それを教える記録はありません。ただ、二年は勤めなければならなかった教員を定年前に辞めたこと、上京後、格別生活に困らなかったことを考えると、少なくとも、呂泣の上京を許した経済的背景は大曲の竹内家の援助であったことは容易に想像されます。 |